資本の神話
1998年5月号
アジア経済危機の余波が残るなか、国際政治の世界は一つの主流ともいうべき見解に支配されている。いや、有力な「神話」と称すべきかもしれない。資本移動の自由化に必然的につきまとう、危機に弱い性質がこれほどまでに明らかになったというのに、資本移動が完全に自由化された社会は今後も必要であり、限りなく望ましいものだ、と考えられているのである。規制の維持よりも、資本の流れの自由化をめざすことが、唯一賢明な方法だといわれている。解決策として望ましいのは、危機に襲われた国々に対する最終的な救済資金の出所として、IMF(国際通貨基金)の立場をより明確にすることだというのだ。事実、IMFは昨年九月に開かれた香港での年次総会で、この方向に向けて画期的な一歩を踏み出した。この総会でIMF暫定委員会は、事実上、資本勘定の兌換性への最終的移行を支持する声明を発表したのである。これはつまり、「国民であれ外国人であれ、IMF加盟国においては、だれでも自由に資本を出し入れできる」という意味である。一九四四年(IMF設立時)の規約には、「経常取引の支払いに対する規制は避ける」という任務が定められているのみで、資本勘定の兌換性がIMFのめざすべき課題ないし目標とはされていなかったのである。資本取引の兌換性とは魅力的な発想だ。貿易の自由化が善であるなら、国境を越えた資本移動も自由化したってかまわないではないか。だが、「資本移動の自由化には、大きなメリットが伴う」という主張には説得力がない。かなりのメリットがあるとは主張されているが実証されていない。メリットのほとんどは、直接投資からえられるものだ。IMFを強化し、運用手法を変えたとしても、危機を根絶したり、その犠牲を大幅に抑制することにはならないだろう。むしろ、資本移動の自由化という神話は、「軍産複合体」を批判したアイゼンハワー大統領にならっていえば、「ウォール街=財務省複合体、あるいは金融=財政複合体(A Wall Street-Treasury Complex)」とも呼ぶべきものから生まれたのである。
