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テーマに関する論文

カスピ海資源とOPECの教訓

1999年2月号

ジャハンガー・アムゼガー  元イラン大蔵大臣

アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンという四つのカスピ海周辺諸国は、今後、間違いなく石油資源を中心とする経済ブームに沸き返ることになるだろう。だが、あり余る豊かさから、使い古しの雑巾のようなボロボロの状態へと至った石油輸出国機構(OPEC)の経験から教訓を学ばない限り、カスピ海周辺諸国もエネルギーブームの魅力が持つ危険な落とし穴にはまりこむことになろう。労なくして手にできる「石油地代」に惑わされたOPEC諸国は、社会保障や官僚制の肥大化、無節操な投資計画、効率性を欠いたインフラ整備プロジェクト、大規模な軍事支出など、財政上の「ブラックホール」を次々とつくりだした。その結果、莫大な資金を浪費して、今日の悲惨な現実に至っているのだ。OPECを反面教師として、カスピ海周辺諸国が堅実な経済運営を行い、市場経済に必要な透明性を備えた制度を確立していかない限り、限りある資源を持続可能な豊かさへ変えていくのは不可能である。

インフレ重視策の功罪

1999年2月号

ジェームス・ガルブレイス  テキサス大学経済学教授

中央銀行が、インフレの上限を定めた反インフレ・価格安定重視策をとれば、「長期的には経済パフォーマンス」が上がるという考えが一部にある。失業率を気にせずに、インフレ率だけを見ていればよいというのだ。この立場をとる人々は、経済成長と完全雇用の達成にとらわれている中央銀行は問題があり、慢性的な高失業率という犠牲を払ってでも物価安定を達成してきたドイツ連銀のような中央銀行こそが正しいモデルである、と言う。完全雇用、安定成長、妥当な物価の安定の実現は彼らの言うように本当に不可能なのか?

恐慌型経済への回帰

1999年2月号

ポール・クルーグマン マサチューセッツ工科大学教授(論文発表当時)

いまや、途上国はホットマネーの脅威にさらされ、成熟した経済は「流動性の罠」という危機に直面している。実際、金利ゼロでも消費者が貯蓄に走り、企業も投資しないとすれば、一体どうなるのか。これこそが懸念される「流動性の罠」だ。日本は古典的な流動性の罠にはまり、もはや金利ゼロでも十分ではない。うまく財政政策を実施できなかった背景には、高齢社会その他さまざまな観点から財政赤字を膨らますことに対する懸念があった。だが、日本に限らず、世界全体が「古風な資本主義の利点を今に呼び起こす際に、その欠陥の一部、とくに不安定化や長引く経済不況への脆さも復活させてしまった」。改革によってわれわれが手にした「資本の自由化、国内金融市場の自由化、物価安定メカニズムの確立、財政均衡を重視する規律」という美徳は、一方で政策上の制約や落とし穴を秘めていた。「早晩われわれは時計の針を少しばかり巻き戻さなければならなくなる」。今や1930年代の気配が漂い始めている。われわれは恐慌型経済の教訓を今いちど再検証する必要がある。

アメリカ外交の試練

1999年1月号

マドレーン・K・オルブライト 米国務長官

冷戦期と比べ、「われわれの目の前にある課題は分類しにくく、より多様で、しかも迅速に変化する」。しかし問われているものは同じである。今も昔も、アメリカの外交政策の成否が、アメリカの歴史と世界の将来を形づくる最大の要因であることに変わりはないからだ。外交にはビジョン、プラグマティズム、リスクを引き受ける気概、そして外交資源が必要だが、これらが複合的に織りなす制約や限界を配慮しつつ、アメリカは世界における民主主義と繁栄を促進しなければならない。グローバル金融システムの動揺、大量破壊兵器の拡散阻止、北朝鮮問題、イラク問題、ボスニア問題と課題は山積している。アメリカは独自のリーダーシップを柔軟に発揮するとともに、問題解決に向けた集団的取り組みのイニシアチブをとる必要がある。何よりも大切なのは、冷戦期同様に、われわれの行く手が安泰ではないことを手遅れにならぬうちに認識できるかどうかだ。

アメリカは「ユーロ・バッシング」をやめよ

1999年1月号

ウィリアム・ウォレス ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE) 上級講師 ジャン・ジエロンカ ユーロピアン・ユニバーシティー・インスティテュート 政治学教授

アメリカはヨーロッパ側のまとまりのなさ、同盟関係への貢献の低さ、経済の低迷、社会保障制度の問題を嘆きながらも、ヨーロッパが単独でまとまり、イニシアチブを発揮しようとすると警戒感を示す。さらに、こうした「ユーロ・バッシング」的見方は、アメリカが抱くヨーロッパ像のコンセンサスは反映していても、ヨーロッパの現実にはそぐわない。ヨーロッパは応分な貢献をなし、経済は復調し、社会保障制度も広い観点から見れば硬直化などしていない。むしろ、問題は身勝手なアメリカにあるのではないか。国際機関や国際法を都合のいいときだけ利用し、都合が悪くなれば批判あるいは無視する。そして、国内政治の力学に派生する、ちぐはぐな外交政策に関してさえ、ヨーロッパの支持を当然視するアメリカの傲慢な態度に問題はないのか。「より踏み込んだ責任分担を求めつつ、ヨーロッパ側の政策のすべてを拒絶する、現在のアメリカのアプローチでは、アメリカの最も重要な同盟諸国を離反させる危険がある」。長期的なパートナーシップには、相互の思いやりと双方向のコミュニケーション・チャンネルが必要なことをアメリカは再認識すべきだろう。

アジアの将来を左右する「日本の歴史認識」

2000年1月号

ニコラス・D・クリストフ  ニューヨーク・タイムズ東京支局長

アジアの歴史的分断線は深く、とくに中国や韓国の人々の反日感情は強い。たしかに、アジア諸国が現在の日本ではなく、かつての日本を基準に判断を下している部分はあるが、かたくなに謝罪を拒む日本の姿勢にも大きな問題がある。アジア経済危機を経て、この地域がまさに日本のリーダーシップを必要としているときに、この分断線が感情面にとどまらず、政治、安全保障領域へと飛び火する恐れさえある。悪循環を断ち切るために、日本がより誠実に謝罪を表明すれば、それだけで、アジアにおける十万の米兵力のプレゼンス以上の地域安全保障への貢献となるはずだ。ここにアメリカの果たすべき役割がある。アジアは、海兵隊よりも、むしろ(アジア諸国間の和解に向けた)アメリカによる忍耐強く誠実なカウンセリングを必要としているのだ。アジアの安定に不可欠な地域的信頼関係は、日本が過去と正面から向き合うようになり、韓国と中国が未来志向になって初めて実現する。

なぜ旧ユーゴ紛争の火種は消えないか

1998年12月号

ウォーレン・バス 「フォーリン・アフェアーズ」副編集長

事実上のボスニア分割を、名ばかりの単一国家という体裁で取り繕っただけのデイトン合意は、それまでになされた侵略行為、人権弾圧、民族浄化など反民主的、非人間的行為を不問に付すことで成立した「嫌々ながらの妥協」である。合意をとりまとめるためには、リベラルな価値とは正反対のイデオロギーの持ち主であるミロシェビッチやツジマンとの交渉が必要だったため、結果的に彼らの立場を強化してしまった。現在のコソボの流血の惨事も、ミロシェビッチやツジマンの立場を強めてしまったデイトン合意の帰結の一つにすぎない。過去の蛮行に免罪符を与えたかのようなデイトン合意が、ますますセルビア人を民族的排外主義に駆り立ててしまったからだ。ボスニアを含む旧ユーゴの地に、多民族民主主義とコスモポリタンな社会を復活させ、アメリカのリベラル外交の面目を保つには、「戦争裁判の実施、難民の故郷への復帰、(民族的でない)市民的ナショナリズムの価値の再確認」など、デイトン合意に盛り込まれたリベラルな要素を実現していくしかない。

日本外交も大不況

1998年12月号

船橋洋一  朝日新聞編集委員

日本の金融不安や政治・経済面での停滞は、社会に悲観主義を蔓延させ、非核国で経済力に富み、民主的なシビリアン・パワーであるというアイデンティティーさえも危機にさらしている。経済力が外交的影響力につながるとする日本の前提は、日本経済の衰退によって力を失いつつあり、いずれ国益をより現実的に定義しなければならなくなるだろう。アジア経済のメルトダウン、インド・パキスタンの核実験、中国の台頭、日米同盟の不確実性と、難題は山積しているが、日米中のバランスをいかにとるか、これが現実主義外交の最大の課題となろう。日本は米中接近に対して被害者意識を抱くのではなく、経済、安全保障の両面で、とりわけマクロ経済政策、貿易、環境問題、核軍縮措置、地域政策を含む多様な問題に関して、より闊達な日米中の三国間対話を確立させていくべきである。将来は中国の参加も視野に入れた日米同盟のビジョンを描くことも必要だろう。日本の将来を過度に悲観視すべきでないが、日本のカムバックには、新しいアイデアと人的資源が必要である。そして、それを提供するのは官僚ではなく、姿を現しつつある市民社会であろう。

歩き続けるドイツ――ボンからベルリンへ

1998年12月号

クリストフ・ベルトラム  元「ツァイト」編集長

コールからシュレーダーへ。社会民主党、左派政党時代の幕開けが、対仏関係、国内政策、欧州統合にどのような影響を与えるのかは予断を許さない。一方、シュレーダー・ドイツの行く手には「ボンからベルリンへ」の首都移転という一大作業も待ち受けている。ナチス・ドイツが瓦礫とともに崩壊し、西側がスターリンと対決の瀬戸際までいったこの町への首都移転は何を意味するのか。海外の人々の一部は、「よりドイツらしいドイツ」は対外的なスタンスをどこに定めるのか、と懸念している。しかし、新生ベルリンがあくまでボンの遺産のうえに成り立つことを忘れてはならない。ベルリンが拠って立つのは、ボンがこの五十年の間に築き上げた、「ドイツの民主主義と(その前提である)寛容性、連邦制としての自信、国家としての実績」なのだ。ボンでは望みようのなかった何かをこの町が提供できるとすれば、「困惑させるほどに歴史的な町が人に与える興奮」と重厚な政治論争の場であろう。

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