情報化時代の国益
1999年7月号
民主主義社会における国益とは、「世界の他の地域との関係をめぐって市民が共有できる優先順位」のことにほかならず、それを定義するのは今も昔も簡単ではない。アメリカ市民が、自国の国益のなかに特定の価値が含まれ、それを海外で広めることも国益に含まれると考えているのは明らかで、当然、道徳的外交と国益外交の区別はできない。しかも、情報化時代にある今、海外のどの問題に対応すべきで、どれに対応しなくてよいかについて、メディアが事実上、政治的圧力を作り出せる。今そこにある人間の抗争や苦しみがドラマチックな形でビジュアルに映し出されたほうが、「覇権的」中国の台頭やロシアの「ワイマール化」といった概念的な脅威よりもはるかに大衆に訴えかけるものが大きいからだ。さらに、旧ユーゴ地域のように民族指導者が、メディアをつうじて国境を超えた民族の連帯を政治的野望の下にとりまとめることもできるため、状況は混沌としている。だが、最低限言えるのは、「人道上の配慮と明確な国益の危機がオーバーラップしている地域以外では、われわれは軍事力の使用は一般に控えるべき」だし、アメリカの海外での目的をそのパワーに見合ったレベルのものとし、「慎重さ」を心がけて国益を合理的に模索すべきだということだ。テレビに映し出される人道上の問題を、国益促進のためのより遠大な政策と統合するのを助けるような「慎重さのルール」を確立させることが急務だろう。
