Everett Historical / Shutterstock.com
Classic Selection 1999
超えられなかった過去
―― 戦後日本の社会改革の限界
The Unmasterable Past
1999年9 月号掲載論文
憲法改正問題から集中豪雨的な輸出政策・官僚主導型の政治――そうした弊害の多くは実は1940年代の未完の占領革命、言い換えれば、占領政策の「逆コース」にそのルーツがある。つまり、官僚が力を持ち続け、一方では冷戦における西側陣営の一翼を担えるようにと米政府がマッカーサーに日本経済を立て直せと命じた1948年の政策転換によって、開放的で民主化されたシステムが日本に根づく可能性はなくなった。この「歴史の非継続性」は、これまでも様々な方面から議論の対象とされてきたが、今後予想される日本の国益論争・安保論争などをめぐって日本の周辺諸国と米国を巻き込んだ論争の焦点の一つとなっていく可能性は高い。
- 混乱する日本株式会社
- 占領のパラドックス
- 中途半端に終わった民主化
<混乱する日本株式会社>
日本の近代史、そして刻々と変化しつづける日米関係の中枢にあるのは、日本の「歴史の断絶」がつくりだす緊張だ。
日本人だけでなく、数多くの海外の友人や評論家たちが「日本は歴史の継続性を取り戻す必要がある」と強く主張しているのもこのためだ。欧米世界の日本観では、この国は、何世紀にもわたって大きな権限を持つ官僚が統治し、2600年の長きにわたって絶えることなく天皇制が正統性を保ち、日々の社会生活(そしておおむね政治生活)が深い歴史に根ざしている国と考えられている。しかし、先進国のなかで、この150年間の日本ほど目まぐるしく急激な変化を経験した国もないだろう。
継続性を重視する日本人の態度の背後には、アメリカ人にとってはきわめて異質で、まったく経験したことのない歴史の断絶がきしんだ音をたてて、ぽっかり口を開けている。
1853年にいたるまでの日本は、数世紀にわたって鎖国を続け、欧米諸国との接触をほぼ全面的に閉ざしてきた。(1853年の)ペリー来航以降の約10年間で、欧米諸国は日本沿岸の軍事施設を破壊し、政治・経済両面で不平等な条約を日本に受け入れさせた。
1920年代になると、日本は「大正デモクラシー」として知られる、より自由主義的な政治システムへと移行し、ウッドロー・ウィルソン米大統領が提唱した反植民地主義や民族自決主義を支持するようになる。だが、それから10年も経つと、日本は軍事政権によって支配されるようになり、植民地帝国の建設に着手する。
日本が、自分たちの帝国を建設し、一度も他国に支配・占領されたことがないという伝統を守ろうとした結果、1940年代半ばまでには、200~300万の日本人が命を落としていた。1940年代後半には、「白人の責務」を全うするために、ダグラス・マッカーサー率いる数千人のGI(米兵)が日本に乗り込んできた。そして、(戦後復興を遂げた日本は)1980年代末までは、見事な経済成長ゆえに、「日本こそ冷戦の実質的勝者だ」と羨望の対象にさえされた。だが、その日本経済も、10年後には、長期的ビジョンを失い、腐敗し、破綻していると世界から相手にされなくなっていた。
歴史家のジョン・ダワーの最新作『Embracing Defeat(敗戦を抱きしめて 岩波書店 2001年)』は、20世紀半ばの日本をテーマに詳細な分析を試みた彼の三冊目の著作にあたる。彼は、1940年代の戦争と今日の経済混乱のルーツという地殻変動的な二大シフトを誰よりもうまく描き出している。
ダワーは、1945年から1950年の日本の社会と政治という、硬いケーキさながらの厚い生地に切り込んでいる。マサチューセッツ工科大学の教授である歴史家のダワーは、日米関係だけでなく、日本国内の政治・経済政策も分析している。
彼が切り分けたケーキのもっとも厚い層からは、日本社会のあらゆる階層が敗戦による混乱、破壊、飢餓を前に「無防備な姿で立ち尽くしていた」様子がみえてくる。ネズミ、ドブネズミ、バラの葉やカイコのまゆ、おがくずで作った団子や蒸しパンなど、それが何であれ、とにかく腹に入れれば、飢え死にだけは逃れられると、大阪の行政当局者が示唆したエピソードも紹介されている。
それまでにない苦痛に満ちた敗戦の経験こそが、日本人を「自らの置かれた惨状にばかり気を奪われ……他の人々に強いた苦しみに無頓着(むとんちゃく)にしてしまった」理由の一つであるとダワーは説明している。
戦期をつうじて、兵士たちは降伏しないようにたたきこまれていたし、民間人も当時の合い言葉である「玉砕」をして果てる覚悟を決めていた。
降伏の瞬間が間近に迫った段階でも、東京の空は昼なおよどんでいた。米軍の空襲の残り火だけでなく、抜け目のない軍務官僚たちが膨大な戦時記録を燃やし続けていたからだ。歴史の急旋回を目前に控え、過去を燃やし尽くす必要があったのだ。
しかし、過去をなかったことにはできない。ダワーが詳細なケーススタディーをつうじて示しているのは、日本人、とくに復員兵たちが、戦争の恐ろしさを詳細につづった手記を新聞に投稿し、それが紙上で公開されたことだ。復員兵の多くが、絶望的な戦闘を彼らに強要した上官たちの残忍さと愚かさを訴えた。職権を乱用した将校に対して兵卒たちが復讐のリンチを加えた事件を一紙が報じると、意見を寄せた18人の読者のうち16人が兵士の行動を支持すると表明した。
だが、戦後の民衆がこのような反応を示していたとしても、日本のエリート指導層は、この国を戦争へと駆り立てた社会そのものを抜本的に改革したいとは考えていなかった。
マッカーサーは近衛文麿に憲法改正について助言を求めた。1937年に中国との戦争を始め、1940年に枢軸同盟を結んだ当時の首相である近衛に、マッカーサーがそうした要請をしたことは、なにがしかの歴史の継続性を認めることに配慮していたのかもしれない。近衛がまとめた保守的な改正案はあっさりと拒絶されたが、日本のエリート層は改革が最小限ですむと思い違いをしていたようだ。提案を拒否され、A級戦犯にリストアップされた近衛は、収監予定日の前夜自殺する。
復員兵たちの新聞投稿、近衛の自殺、そしてマッカーサーの新しい法システムの導入による人権の保障、政治的言論の自由、新しい教育システム、警察制度の分権化――これらのすべてが、息をのむほどの開放の好機として突然日本の社会を包み込み始めたかにみえた。「人々はこれまでとは違う考え方をし、行動し、これまで知っていたのとは全く違い、その後もおそらくは経験することのない状況に遭遇した。人々は自らの生活を刷新する必要を切実に感じていた」とダワーは指摘している。
しかし、不幸にも、開放と実験の動きが顕著にみられたのは社会の一側面においてでしかなかった。進駐軍相手に暴利をむさぼる売春ビジネスが始められ、ストリップショーが日米男性の娯楽として繁盛した。デカダンスや退廃的な生き方を深く追い求める文学や写真もあふれかえるようになった。
揺り戻しがくるのに時間はかからなかった。「このような側面が欧米民主主義の一部であるなら、民主主義などこれ以上は受け入れたくない」と日本人の多くは考えた。
ダワーは、このとき日本は開放と実験を試み、社会の成立基盤を根底から問い直すべき、またとない「瞬間」を手にしていた、と強調する。しかし、その瞬間はまたたく間に過ぎ去ってしまった。
<占領のパラドックス>
ほとんどの日本人は、マッカーサーと彼が率いる巨大な官僚システムがもたらした変化と改革を前向きに受けとめていた。ダワーによれば、これによってある種の「新植民地主義革命」が起きた。1948年まで、SCAP(連合軍最高司令部総本部)という名の超政府には実に3200人のアメリカ人が勤務していた。
重要なポストにあった占領軍官僚の多くは、「自分たちがいま支配している国についてあまり知らないこと」を認めていた。彼らは、アメリカの改革思想、とりわけ心酔していたニューディール思想をなによりの指針としていた。
その結果、自己再編の好機に向かっていた日本は、パラドックスに満ちた混乱の世界へと足を踏み入れることになる。「勝者は民主主義を説きながら、恣意的な命令をつうじて国を支配した。平等の思想を吹き込んでおきながら、自らを神聖不可侵の特権カーストに位置付け」、基本的な問題を日本人と議論することさえ認めなかった。こうして日本占領は、「西洋諸国の拡大主義にありがちな、人種偏見に満ちたパターナリズムを示す新たな事例」と化していった。
占領につきまとったパラドックスはこれだけではない。1947年、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランによって冷戦が激化していくにつれて、トルーマン政権はマッカーサーに対して、これまでの路線を転換する「逆コース」を取るようにと唐突に命じた。
だがすでにマッカーサーは、巨大財閥を解体し、戦争犯罪人を法廷に引きずりだし、リベラル勢力だけでなく、共産主義者たちによる労働組合も認め、民主主義を標榜する憲法を書き終えていた。
混乱した議論、新植民地主義的路線、新憲法草案の一部条項に対する日本人の反発など、日本国憲法は変更の余地を残していた。だが現実には、1947年から1948年に「逆コース」をたどり始める前から、すでに改革路線は最低限に抑え込まれていた、とダワーは分析する。マッカーサーは、「逆コース」の指令を受ける前から、官僚制と天皇制という日本の保守派を満足させる二つの制度を存続させようと動いていた。
占領当局は次第に日本の官僚制度に多くを依存するようになり、その結果、「官僚たちは戦時動員体制の最盛期を上回る大きな権限と影響力を手にするようになった」。さらにマッカーサーが天皇の非政治的・非宗教的権威を存続させることに熱心だったため、経済、官僚システム、政治の抜本的な変化など起こるべくもなかったことを、ダワーは繰り返し強調している。
こうした状況ゆえに、天皇の名によって犯された戦争期の残虐行為を正面からとらえる見込みも消滅してしまった、と彼は言う。天皇は、「天から下界への途中まで」わずかばかり降りてきただけだった。
天皇と官僚が力を持ち続け、一方では、冷戦における西側陣営の一翼を担えるように日本経済を迅速に立て直せと米政府がマッカーサーに命じたことを考えあわせると、開放的で民主化されたシステムが日本で誕生する希望は、すでに1948年にはついえ去っていた。
ダワーはこの「逆コース」の原因と結果についてはあまり詳しく論じていない。おそらく彼はこの転換点については、これまでの著作や研究で十分に検証していると考えているのかもしれない。
しかしダワーは、その後における日本問題のルーツを、「1945年から1946年にかけての日本の開放性を最大限に高める機会を、十分生かせなかった占領政策の失敗にある」と見ている可能性が高い。
そうした失敗の痕跡を今も残しているのが、アメリカ合衆国憲法の冒頭の文言 We, the people(われわれ合衆国「人民」)にならって、アメリカ人起草者たちが日本の憲法草案に挿入したthe peopleの日本語訳がたどった運命だろう。日本にはアメリカのような民衆による統治の経験がなかった。このため、peopleという言葉が「国民」と訳されることになった。だが、この「国民」という言葉自体、天皇を含めた権威と民衆の間の調和のとれた関係という伝統的な意味合いを内包していた。事実、国民という言葉は戦時中のプロパガンダでよく登場した言葉だ。米側の高官たち(その一人は、日本についての知識を英字新聞の朝刊から断片的にしか得ていないことを隠さなかった)は、この日本語訳をそのまま放置した。こうして、ニューディール的な改革の意図は、日本の国家主義的な訳語が憲法へ挿入されることで損なわれていった。ましてやニューディーラーたちが日本を去った後は、こうした憲法を改正する必要性はますます小さくなっていった。
ある意味では、戦争を放棄しているとも解釈できる、日本国憲法の有名な第9条もこれと似たような経緯をたどった。ダワーが周到な描写で見事に描き出しているその結末は、橋本龍太郎首相(当時)のような強硬派にとっても違和感を覚えるものではなかったはずだ(1998年8月に北朝鮮が打ち上げたテポドン・ミサイルが日本の上空を通過するという事態を前に、橋本首相は軍備増強で対抗したいと考えた)。
憲法第9条の最初の草案では、国際紛争を解決する手段として戦争や「武力による威嚇」を「放棄」するだけでなく、「陸海空軍……は決して認められない(never be authorized)」とされていた。だが、国会での激しい論争を経て、芦田均は条文を書き換え、「認められない」を「保持しない」と変え、マッカーサーの部下たちも、この表現を受け入れた。
後に、芦田はこの条項は自衛権を否定しないと主張するようになった。だがダワーによれば、そうした考え方は、国会の議事録にも、長期にわたる非公開の末ようやく解禁された、芦田委員会の記録のなかにも明確には見いだせない。
さらに、日米の起草者は憲法第66条で、(総理大臣と)内閣閣僚は「文民」でなければならないとしており、この規定は、19世紀末以降の軍部による政治支配を繰り返さないためのものだった。しかし、この条項が盛り込まれたのにはもう一つ理由があった。ポスト1947年の政治シーンに登場することになる旧軍人たちを、内閣から締めだす必要が現にあったからだ。
最近明らかになったように朝鮮半島やベトナムにおける米軍を自衛隊が後方で支援していたこと、1960年の安保条約の枠内で日本の軍事力がかなりの進化と発展を遂げたこと、そしてクリントン政権が「自衛隊はかなり自由に米軍を支援できる」と解釈していることと、ダワーの分析を重ね合わせると、日本の今後の役割をめぐる論争は、憲法第9条の改正をめぐってではなく、芦田の修正解釈と憲法第9条が許す範囲内でいかに軍備増強をはかるかを争点に展開していくことになると考えられる。
日本の軍備増強を決して喜んではいない近隣諸国は、「1931年から1945年の間に犯した罪について日本はこれまで一度も正面から向き合っていない」という思いを抱いている。
しかし、ダワーが痛烈な批判をこめて描写しているように、近隣諸国だけでなく、国際的な正義に心を寄せる者は誰一人として、占領当局が1946年5月に始めた戦争犯罪を裁く東京裁判に満足することはないはずだ。東京裁判は31カ月にわたって続けられた(対照的に、1945年11月に開始されたドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判は10カ月で終了している)。
「気まぐれで、紛れもなく場当たり的」とダワーは明らかに控えめな言い回しで言うが、これこそ東京裁判の審理の進め方だった。
11人の判事のなかで国際法の経験が豊富だったのはインド代表だけだった。彼(パル)は公判を痛烈に批判する文章を残している。ソビエトが送り込んだ裁判官の評判といえば、1930年代のスターリンの見せしめ裁判で大活躍したことくらいだった。この人物が知っている英語は「乾杯!」だけだった。中国(国民党政府)が送り込んだ人物にいたっては判事の経験がなく、裁判が終盤にさしかかるころには、蒋介石政権は(共産主義勢力によって)大陸から台湾へと拠点を移さざるを得ない状況に陥っていた。フィリピンが送り込んだ判事は、日本軍によって「バターンの死の行進」を強要された人々の一人だった。当然、私情を捨てて司法の独立性を保てるかどうか疑わしかった。
判事団は死活を制する重要問題をめぐって分裂し、公然と激しく対立していた。実際、戦犯として絞首刑に処せられた7人のうちの1人は、判事6人の多数意見によってかろうじて判決が下されている。
占領当局は、「日本は中国が大きな混乱に陥り、アジア一帯に共産主義が蔓延するのを阻止しようと試みた」という日本側の弁明を受けつけなかった(こうした弁明は、ワシントンが毛沢東率いる中国の共産主義勢力に対抗して、1947年に対日政策を「逆コース」へと転換させるなかで行われた)。
だが、逆コースの一環として、アメリカの官僚たちは、絞首刑はともかく、「何とか有罪に持ち込みたい」とそれまで考えていた戦犯たちを逆に取りこみはじめた。これによってよみがえった人物には、政治ブローカーの大立て者だった児玉誉士夫、後に総理大臣となる岸信介が含まれていた。岸は、1960年に日米安保条約改定を強引に進めた結果、安保反対の反米デモによって辞任に追い込まれている。
日本の保守派は「東京裁判は無意味である」と退けたが、リベラル派は(逆コースによって)「戦争犯罪人を法に基づいて裁く機会が失われた」と嘆いた。
国務省のジョージ・ケナンは、東京裁判の審理過程を「法的ではなく、政治的裁判」であり、「間違った発想、不健全な心理」で進められたと描写している。
戦争犯罪でだれを起訴するかを選ぶ中心的な役割を果たしていたエリオット・ソープ准将は、後に東京裁判について「事後に定めた法律で過去を裁く(問題のある)やり方で、……われわれは戦犯たちを絞首刑にした。その理由は、彼らが戦争を国策の道具としたからだ」と回想している。後世の戦争犯罪法廷にとって、東京裁判は「裁判で何をすべきでないか」という教訓しか残せていない。
<中途半端に終わった民主化>
1948年までには、上からであれ下からであれ、純然たる民主的改革への期待は消え去っていたとダワーは結論する。こうして、日本が戦争中の残虐行為に対する自責の念を公的に表明する機会は失われた。多くの専門家が、「1945年から1946年当時の日本人には過去と建設的に向き合う心づもりがあった」と考えているだけに、(この時期にそうした試みがなされなかったのは)きわめて不幸なことだった。
1949年までには、日本人の多くが『風とともに去りぬ』のヒロインのスカーレット・オハラに自らを重ね合わせていた。小説はベストセラーになり、小説の主人公同様に、人々は戦争のことは忘れ、「二度と飢えるものか」と心に誓っていた。
アメリカは快く日本を助けた。戦時下の統制を存続させ、対外貿易の政府による高度な管理を許容し、すでに巨大な官僚の権力をさらに肥大化させるとしても、経済成長を加速することが重要だと考えた。アメリカの指導と日本の努力によるこうした占領政策の一側面が、1960年代から1990年代にいたる日本の輸出主導型の成長を推進したケイレツ構造を支えた。
ダワーは、マッカーサーをはじめとするアメリカの官僚たちは、「独裁制、ヒエラルヒー社会、調和、コンセンサス、自主検閲を行うのに、儒教文化の遺産は必ずしも必要ないこと」(つまり、アメリカ人にもそうしたことができること)を実証したと結論づけている。1850年代、1920年代、特に1940年代に、アメリカ人は、日本が劇的な政治・経済面での変化を乗り切る手助けをした。だが、少なくとも1920年代、1940年代の変化に関して言えば、その結果は双方が考えていたものとは大きく違っていた。
見事なほどに細かに調べ上げられたこの著作は、現実がなぜ予想と異なるものになったか、そして、なぜかくも異なる二つの国が織りなす歴史的で複雑を極め、人を魅了してやまない関係が、1945年以後の世界で重要であり続けているのかを解き明かしている。●
日本の近代史、そして刻々と変化しつづける日米関係の中枢にあるのは、日本の「歴史の断絶」がつくりだす緊張だ。
日本人だけでなく、数多くの海外の友人や評論家たちが「日本は歴史の継続性を取り戻す必要がある」と強く主張しているのもこのためだ。欧米世界の日本観では、この国は、何世紀にもわたって大きな権限を持つ官僚が統治し、2600年の長きにわたって絶えることなく天皇制が正統性を保ち、日々の社会生活(そしておおむね政治生活)が深い歴史に根ざしている国と考えられている。しかし、先進国のなかで、この150年間の日本ほど目まぐるしく急激な変化を経験した国もないだろう。
継続性を重視する日本人の態度の背後には、アメリカ人にとってはきわめて異質で、まったく経験したことのない歴史の断絶がきしんだ音をたてて、ぽっかり口を開けている。
1853年にいたるまでの日本は、数世紀にわたって鎖国を続け、欧米諸国との接触をほぼ全面的に閉ざしてきた。(1853年の)ペリー来航以降の約10年間で、欧米諸国は日本沿岸の軍事施設を破壊し、政治・経済両面で不平等な条約を日本に受け入れさせた。
1920年代になると、日本は「大正デモクラシー」として知られる、より自由主義的な政治システムへと移行し、ウッドロー・ウィルソン米大統領が提唱した反植民地主義や民族自決主義を支持するようになる。だが、それから10年も経つと、日本は軍事政権によって支配されるようになり、植民地帝国の建設に着手する。
日本が、自分たちの帝国を建設し、一度も他国に支配・占領されたことがないという伝統を守ろうとした結果、1940年代半ばまでには、200~300万の日本人が命を落としていた。1940年代後半には、「白人の責務」を全うするために、ダグラス・マッカーサー率いる数千人のGI(米兵)が日本に乗り込んできた。そして、(戦後復興を遂げた日本は)1980年代末までは、見事な経済成長ゆえに、「日本こそ冷戦の実質的勝者だ」と羨望の対象にさえされた。だが、その日本経済も、10年後には、長期的ビジョンを失い、腐敗し、破綻していると世界から相手にされなくなっていた。
歴史家のジョン・ダワーの最新作『Embracing Defeat(敗戦を抱きしめて 岩波書店 2001年)』は、20世紀半ばの日本をテーマに詳細な分析を試みた彼の三冊目の著作にあたる。彼は、1940年代の戦争と今日の経済混乱のルーツという地殻変動的な二大シフトを誰よりもうまく描き出している。
ダワーは、1945年から1950年の日本の社会と政治という、硬いケーキさながらの厚い生地に切り込んでいる。マサチューセッツ工科大学の教授である歴史家のダワーは、日米関係だけでなく、日本国内の政治・経済政策も分析している。
彼が切り分けたケーキのもっとも厚い層からは、日本社会のあらゆる階層が敗戦による混乱、破壊、飢餓を前に「無防備な姿で立ち尽くしていた」様子がみえてくる。ネズミ、ドブネズミ、バラの葉やカイコのまゆ、おがくずで作った団子や蒸しパンなど、それが何であれ、とにかく腹に入れれば、飢え死にだけは逃れられると、大阪の行政当局者が示唆したエピソードも紹介されている。
それまでにない苦痛に満ちた敗戦の経験こそが、日本人を「自らの置かれた惨状にばかり気を奪われ……他の人々に強いた苦しみに無頓着(むとんちゃく)にしてしまった」理由の一つであるとダワーは説明している。
戦期をつうじて、兵士たちは降伏しないようにたたきこまれていたし、民間人も当時の合い言葉である「玉砕」をして果てる覚悟を決めていた。
降伏の瞬間が間近に迫った段階でも、東京の空は昼なおよどんでいた。米軍の空襲の残り火だけでなく、抜け目のない軍務官僚たちが膨大な戦時記録を燃やし続けていたからだ。歴史の急旋回を目前に控え、過去を燃やし尽くす必要があったのだ。
しかし、過去をなかったことにはできない。ダワーが詳細なケーススタディーをつうじて示しているのは、日本人、とくに復員兵たちが、戦争の恐ろしさを詳細につづった手記を新聞に投稿し、それが紙上で公開されたことだ。復員兵の多くが、絶望的な戦闘を彼らに強要した上官たちの残忍さと愚かさを訴えた。職権を乱用した将校に対して兵卒たちが復讐のリンチを加えた事件を一紙が報じると、意見を寄せた18人の読者のうち16人が兵士の行動を支持すると表明した。
だが、戦後の民衆がこのような反応を示していたとしても、日本のエリート指導層は、この国を戦争へと駆り立てた社会そのものを抜本的に改革したいとは考えていなかった。
マッカーサーは近衛文麿に憲法改正について助言を求めた。1937年に中国との戦争を始め、1940年に枢軸同盟を結んだ当時の首相である近衛に、マッカーサーがそうした要請をしたことは、なにがしかの歴史の継続性を認めることに配慮していたのかもしれない。近衛がまとめた保守的な改正案はあっさりと拒絶されたが、日本のエリート層は改革が最小限ですむと思い違いをしていたようだ。提案を拒否され、A級戦犯にリストアップされた近衛は、収監予定日の前夜自殺する。
復員兵たちの新聞投稿、近衛の自殺、そしてマッカーサーの新しい法システムの導入による人権の保障、政治的言論の自由、新しい教育システム、警察制度の分権化――これらのすべてが、息をのむほどの開放の好機として突然日本の社会を包み込み始めたかにみえた。「人々はこれまでとは違う考え方をし、行動し、これまで知っていたのとは全く違い、その後もおそらくは経験することのない状況に遭遇した。人々は自らの生活を刷新する必要を切実に感じていた」とダワーは指摘している。
しかし、不幸にも、開放と実験の動きが顕著にみられたのは社会の一側面においてでしかなかった。進駐軍相手に暴利をむさぼる売春ビジネスが始められ、ストリップショーが日米男性の娯楽として繁盛した。デカダンスや退廃的な生き方を深く追い求める文学や写真もあふれかえるようになった。
揺り戻しがくるのに時間はかからなかった。「このような側面が欧米民主主義の一部であるなら、民主主義などこれ以上は受け入れたくない」と日本人の多くは考えた。
ダワーは、このとき日本は開放と実験を試み、社会の成立基盤を根底から問い直すべき、またとない「瞬間」を手にしていた、と強調する。しかし、その瞬間はまたたく間に過ぎ去ってしまった。
<占領のパラドックス>
ほとんどの日本人は、マッカーサーと彼が率いる巨大な官僚システムがもたらした変化と改革を前向きに受けとめていた。ダワーによれば、これによってある種の「新植民地主義革命」が起きた。1948年まで、SCAP(連合軍最高司令部総本部)という名の超政府には実に3200人のアメリカ人が勤務していた。
重要なポストにあった占領軍官僚の多くは、「自分たちがいま支配している国についてあまり知らないこと」を認めていた。彼らは、アメリカの改革思想、とりわけ心酔していたニューディール思想をなによりの指針としていた。
その結果、自己再編の好機に向かっていた日本は、パラドックスに満ちた混乱の世界へと足を踏み入れることになる。「勝者は民主主義を説きながら、恣意的な命令をつうじて国を支配した。平等の思想を吹き込んでおきながら、自らを神聖不可侵の特権カーストに位置付け」、基本的な問題を日本人と議論することさえ認めなかった。こうして日本占領は、「西洋諸国の拡大主義にありがちな、人種偏見に満ちたパターナリズムを示す新たな事例」と化していった。
占領につきまとったパラドックスはこれだけではない。1947年、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランによって冷戦が激化していくにつれて、トルーマン政権はマッカーサーに対して、これまでの路線を転換する「逆コース」を取るようにと唐突に命じた。
だがすでにマッカーサーは、巨大財閥を解体し、戦争犯罪人を法廷に引きずりだし、リベラル勢力だけでなく、共産主義者たちによる労働組合も認め、民主主義を標榜する憲法を書き終えていた。
混乱した議論、新植民地主義的路線、新憲法草案の一部条項に対する日本人の反発など、日本国憲法は変更の余地を残していた。だが現実には、1947年から1948年に「逆コース」をたどり始める前から、すでに改革路線は最低限に抑え込まれていた、とダワーは分析する。マッカーサーは、「逆コース」の指令を受ける前から、官僚制と天皇制という日本の保守派を満足させる二つの制度を存続させようと動いていた。
占領当局は次第に日本の官僚制度に多くを依存するようになり、その結果、「官僚たちは戦時動員体制の最盛期を上回る大きな権限と影響力を手にするようになった」。さらにマッカーサーが天皇の非政治的・非宗教的権威を存続させることに熱心だったため、経済、官僚システム、政治の抜本的な変化など起こるべくもなかったことを、ダワーは繰り返し強調している。
こうした状況ゆえに、天皇の名によって犯された戦争期の残虐行為を正面からとらえる見込みも消滅してしまった、と彼は言う。天皇は、「天から下界への途中まで」わずかばかり降りてきただけだった。
天皇と官僚が力を持ち続け、一方では、冷戦における西側陣営の一翼を担えるように日本経済を迅速に立て直せと米政府がマッカーサーに命じたことを考えあわせると、開放的で民主化されたシステムが日本で誕生する希望は、すでに1948年にはついえ去っていた。
ダワーはこの「逆コース」の原因と結果についてはあまり詳しく論じていない。おそらく彼はこの転換点については、これまでの著作や研究で十分に検証していると考えているのかもしれない。
しかしダワーは、その後における日本問題のルーツを、「1945年から1946年にかけての日本の開放性を最大限に高める機会を、十分生かせなかった占領政策の失敗にある」と見ている可能性が高い。
そうした失敗の痕跡を今も残しているのが、アメリカ合衆国憲法の冒頭の文言 We, the people(われわれ合衆国「人民」)にならって、アメリカ人起草者たちが日本の憲法草案に挿入したthe peopleの日本語訳がたどった運命だろう。日本にはアメリカのような民衆による統治の経験がなかった。このため、peopleという言葉が「国民」と訳されることになった。だが、この「国民」という言葉自体、天皇を含めた権威と民衆の間の調和のとれた関係という伝統的な意味合いを内包していた。事実、国民という言葉は戦時中のプロパガンダでよく登場した言葉だ。米側の高官たち(その一人は、日本についての知識を英字新聞の朝刊から断片的にしか得ていないことを隠さなかった)は、この日本語訳をそのまま放置した。こうして、ニューディール的な改革の意図は、日本の国家主義的な訳語が憲法へ挿入されることで損なわれていった。ましてやニューディーラーたちが日本を去った後は、こうした憲法を改正する必要性はますます小さくなっていった。
ある意味では、戦争を放棄しているとも解釈できる、日本国憲法の有名な第9条もこれと似たような経緯をたどった。ダワーが周到な描写で見事に描き出しているその結末は、橋本龍太郎首相(当時)のような強硬派にとっても違和感を覚えるものではなかったはずだ(1998年8月に北朝鮮が打ち上げたテポドン・ミサイルが日本の上空を通過するという事態を前に、橋本首相は軍備増強で対抗したいと考えた)。
憲法第9条の最初の草案では、国際紛争を解決する手段として戦争や「武力による威嚇」を「放棄」するだけでなく、「陸海空軍……は決して認められない(never be authorized)」とされていた。だが、国会での激しい論争を経て、芦田均は条文を書き換え、「認められない」を「保持しない」と変え、マッカーサーの部下たちも、この表現を受け入れた。
後に、芦田はこの条項は自衛権を否定しないと主張するようになった。だがダワーによれば、そうした考え方は、国会の議事録にも、長期にわたる非公開の末ようやく解禁された、芦田委員会の記録のなかにも明確には見いだせない。
さらに、日米の起草者は憲法第66条で、(総理大臣と)内閣閣僚は「文民」でなければならないとしており、この規定は、19世紀末以降の軍部による政治支配を繰り返さないためのものだった。しかし、この条項が盛り込まれたのにはもう一つ理由があった。ポスト1947年の政治シーンに登場することになる旧軍人たちを、内閣から締めだす必要が現にあったからだ。
最近明らかになったように朝鮮半島やベトナムにおける米軍を自衛隊が後方で支援していたこと、1960年の安保条約の枠内で日本の軍事力がかなりの進化と発展を遂げたこと、そしてクリントン政権が「自衛隊はかなり自由に米軍を支援できる」と解釈していることと、ダワーの分析を重ね合わせると、日本の今後の役割をめぐる論争は、憲法第9条の改正をめぐってではなく、芦田の修正解釈と憲法第9条が許す範囲内でいかに軍備増強をはかるかを争点に展開していくことになると考えられる。
日本の軍備増強を決して喜んではいない近隣諸国は、「1931年から1945年の間に犯した罪について日本はこれまで一度も正面から向き合っていない」という思いを抱いている。
しかし、ダワーが痛烈な批判をこめて描写しているように、近隣諸国だけでなく、国際的な正義に心を寄せる者は誰一人として、占領当局が1946年5月に始めた戦争犯罪を裁く東京裁判に満足することはないはずだ。東京裁判は31カ月にわたって続けられた(対照的に、1945年11月に開始されたドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判は10カ月で終了している)。
「気まぐれで、紛れもなく場当たり的」とダワーは明らかに控えめな言い回しで言うが、これこそ東京裁判の審理の進め方だった。
11人の判事のなかで国際法の経験が豊富だったのはインド代表だけだった。彼(パル)は公判を痛烈に批判する文章を残している。ソビエトが送り込んだ裁判官の評判といえば、1930年代のスターリンの見せしめ裁判で大活躍したことくらいだった。この人物が知っている英語は「乾杯!」だけだった。中国(国民党政府)が送り込んだ人物にいたっては判事の経験がなく、裁判が終盤にさしかかるころには、蒋介石政権は(共産主義勢力によって)大陸から台湾へと拠点を移さざるを得ない状況に陥っていた。フィリピンが送り込んだ判事は、日本軍によって「バターンの死の行進」を強要された人々の一人だった。当然、私情を捨てて司法の独立性を保てるかどうか疑わしかった。
判事団は死活を制する重要問題をめぐって分裂し、公然と激しく対立していた。実際、戦犯として絞首刑に処せられた7人のうちの1人は、判事6人の多数意見によってかろうじて判決が下されている。
占領当局は、「日本は中国が大きな混乱に陥り、アジア一帯に共産主義が蔓延するのを阻止しようと試みた」という日本側の弁明を受けつけなかった(こうした弁明は、ワシントンが毛沢東率いる中国の共産主義勢力に対抗して、1947年に対日政策を「逆コース」へと転換させるなかで行われた)。
だが、逆コースの一環として、アメリカの官僚たちは、絞首刑はともかく、「何とか有罪に持ち込みたい」とそれまで考えていた戦犯たちを逆に取りこみはじめた。これによってよみがえった人物には、政治ブローカーの大立て者だった児玉誉士夫、後に総理大臣となる岸信介が含まれていた。岸は、1960年に日米安保条約改定を強引に進めた結果、安保反対の反米デモによって辞任に追い込まれている。
日本の保守派は「東京裁判は無意味である」と退けたが、リベラル派は(逆コースによって)「戦争犯罪人を法に基づいて裁く機会が失われた」と嘆いた。
国務省のジョージ・ケナンは、東京裁判の審理過程を「法的ではなく、政治的裁判」であり、「間違った発想、不健全な心理」で進められたと描写している。
戦争犯罪でだれを起訴するかを選ぶ中心的な役割を果たしていたエリオット・ソープ准将は、後に東京裁判について「事後に定めた法律で過去を裁く(問題のある)やり方で、……われわれは戦犯たちを絞首刑にした。その理由は、彼らが戦争を国策の道具としたからだ」と回想している。後世の戦争犯罪法廷にとって、東京裁判は「裁判で何をすべきでないか」という教訓しか残せていない。
<中途半端に終わった民主化>
1948年までには、上からであれ下からであれ、純然たる民主的改革への期待は消え去っていたとダワーは結論する。こうして、日本が戦争中の残虐行為に対する自責の念を公的に表明する機会は失われた。多くの専門家が、「1945年から1946年当時の日本人には過去と建設的に向き合う心づもりがあった」と考えているだけに、(この時期にそうした試みがなされなかったのは)きわめて不幸なことだった。
1949年までには、日本人の多くが『風とともに去りぬ』のヒロインのスカーレット・オハラに自らを重ね合わせていた。小説はベストセラーになり、小説の主人公同様に、人々は戦争のことは忘れ、「二度と飢えるものか」と心に誓っていた。
アメリカは快く日本を助けた。戦時下の統制を存続させ、対外貿易の政府による高度な管理を許容し、すでに巨大な官僚の権力をさらに肥大化させるとしても、経済成長を加速することが重要だと考えた。アメリカの指導と日本の努力によるこうした占領政策の一側面が、1960年代から1990年代にいたる日本の輸出主導型の成長を推進したケイレツ構造を支えた。
ダワーは、マッカーサーをはじめとするアメリカの官僚たちは、「独裁制、ヒエラルヒー社会、調和、コンセンサス、自主検閲を行うのに、儒教文化の遺産は必ずしも必要ないこと」(つまり、アメリカ人にもそうしたことができること)を実証したと結論づけている。1850年代、1920年代、特に1940年代に、アメリカ人は、日本が劇的な政治・経済面での変化を乗り切る手助けをした。だが、少なくとも1920年代、1940年代の変化に関して言えば、その結果は双方が考えていたものとは大きく違っていた。
見事なほどに細かに調べ上げられたこの著作は、現実がなぜ予想と異なるものになったか、そして、なぜかくも異なる二つの国が織りなす歴史的で複雑を極め、人を魅了してやまない関係が、1945年以後の世界で重要であり続けているのかを解き明かしている。●
(C) Copyright 1999 by the Council on Foreign Relations, Inc.,and Foreign Affairs, Japan


