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ヨーロッパに関する論文

高齢化社会という灰色の夜明け

1999年3月号

ピーター・G・ピーターソン  外交問題評議会理事長

人口のほぼ一九%が高齢者で占められるフロリダ。これと同じ状況に先進諸国が直面するのは,そう遠い未来の話ではない。二〇〇三年にイタリア、二〇〇五年に日本、二〇〇六年にドイツがもう一つの「フロリダ」となる。イギリス、アメリカ、カナダもほどなくこれに続く。先進国社会の急速な高齢化がもたらす諸問題とコストは、投げだすのが合理的と判断しかねないほどにあらゆる意味で膨大である。各国の貯蓄は瞬く間に底をつき、財政が火の車になるだけではない。国内の政治力学、国際的資本の流れ、南北の力関係が逆転し、先進諸国から利他的な外交要素がなくなり、グローバルな安全保障が極度に不安定化する危険さえある。「自らの運命を管理し、より持続可能なコースへと道を変える時間的余裕があるうちに、現状を変革するしかない」。決断を下すべきは今で、「世界高齢化サミット」を開催し、この問題のための国際機関を設けることが急務だ。さもなくば、世界は「持続不可能な経済的負担と政治的・社会的苦難の後、悲痛な動乱の時代」へと突入することになりかねない。

コソボ・歴史をめぐる闘いは続く

1999年3月号

ノエル・マルコム  ケンブリッジ大学教授 / アレクサ・ジラス    前ハーバード大学ロシア研究センター研究員

昨年秋、『フォーリン・アフェアーズ』誌上で、元ハーバードの社会学者、アレクサ・ジラスは、コソボをテーマとするノエル・マルコム(ケンブリッジ大学の社会学者)の著作『コソボ概説史』を書評に取り上げた。(注1)ジラスは、筆者のマルコムは「分離独立を求めるコソボのアルバニア人に同情的すぎるし、その立場も反セルビア的で、バルカン問題をめぐる勝手な思いこみがすぎる」と手厳しく批判した。これに対して、マルコムは、「アルバニア人によるコソボの歴史の解釈よりも、セルビア人のコソボ史解釈のほうがより多くの虚構を内包しているのは明らかだ」と、アルバニア人の立場にたって反論する。「コソボ」は民族対立だけでなく、歴史解釈の対立の様相も持ち、それだけに根が深く、熾烈な闘いは学問領域にも及んでいる。以下は、ジラスの書評に対するマルコムの反論と、ジラスによる再反論。

アメリカは「ユーロ・バッシング」をやめよ

1999年1月号

ウィリアム・ウォレス ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE) 上級講師 ジャン・ジエロンカ ユーロピアン・ユニバーシティー・インスティテュート 政治学教授

アメリカはヨーロッパ側のまとまりのなさ、同盟関係への貢献の低さ、経済の低迷、社会保障制度の問題を嘆きながらも、ヨーロッパが単独でまとまり、イニシアチブを発揮しようとすると警戒感を示す。さらに、こうした「ユーロ・バッシング」的見方は、アメリカが抱くヨーロッパ像のコンセンサスは反映していても、ヨーロッパの現実にはそぐわない。ヨーロッパは応分な貢献をなし、経済は復調し、社会保障制度も広い観点から見れば硬直化などしていない。むしろ、問題は身勝手なアメリカにあるのではないか。国際機関や国際法を都合のいいときだけ利用し、都合が悪くなれば批判あるいは無視する。そして、国内政治の力学に派生する、ちぐはぐな外交政策に関してさえ、ヨーロッパの支持を当然視するアメリカの傲慢な態度に問題はないのか。「より踏み込んだ責任分担を求めつつ、ヨーロッパ側の政策のすべてを拒絶する、現在のアメリカのアプローチでは、アメリカの最も重要な同盟諸国を離反させる危険がある」。長期的なパートナーシップには、相互の思いやりと双方向のコミュニケーション・チャンネルが必要なことをアメリカは再認識すべきだろう。

なぜ旧ユーゴ紛争の火種は消えないか

1998年12月号

ウォーレン・バス 「フォーリン・アフェアーズ」副編集長

事実上のボスニア分割を、名ばかりの単一国家という体裁で取り繕っただけのデイトン合意は、それまでになされた侵略行為、人権弾圧、民族浄化など反民主的、非人間的行為を不問に付すことで成立した「嫌々ながらの妥協」である。合意をとりまとめるためには、リベラルな価値とは正反対のイデオロギーの持ち主であるミロシェビッチやツジマンとの交渉が必要だったため、結果的に彼らの立場を強化してしまった。現在のコソボの流血の惨事も、ミロシェビッチやツジマンの立場を強めてしまったデイトン合意の帰結の一つにすぎない。過去の蛮行に免罪符を与えたかのようなデイトン合意が、ますますセルビア人を民族的排外主義に駆り立ててしまったからだ。ボスニアを含む旧ユーゴの地に、多民族民主主義とコスモポリタンな社会を復活させ、アメリカのリベラル外交の面目を保つには、「戦争裁判の実施、難民の故郷への復帰、(民族的でない)市民的ナショナリズムの価値の再確認」など、デイトン合意に盛り込まれたリベラルな要素を実現していくしかない。

歩き続けるドイツ――ボンからベルリンへ

1998年12月号

クリストフ・ベルトラム  元「ツァイト」編集長

コールからシュレーダーへ。社会民主党、左派政党時代の幕開けが、対仏関係、国内政策、欧州統合にどのような影響を与えるのかは予断を許さない。一方、シュレーダー・ドイツの行く手には「ボンからベルリンへ」の首都移転という一大作業も待ち受けている。ナチス・ドイツが瓦礫とともに崩壊し、西側がスターリンと対決の瀬戸際までいったこの町への首都移転は何を意味するのか。海外の人々の一部は、「よりドイツらしいドイツ」は対外的なスタンスをどこに定めるのか、と懸念している。しかし、新生ベルリンがあくまでボンの遺産のうえに成り立つことを忘れてはならない。ベルリンが拠って立つのは、ボンがこの五十年の間に築き上げた、「ドイツの民主主義と(その前提である)寛容性、連邦制としての自信、国家としての実績」なのだ。ボンでは望みようのなかった何かをこの町が提供できるとすれば、「困惑させるほどに歴史的な町が人に与える興奮」と重厚な政治論争の場であろう。

欧州統合という幻想

1998年7月号

ティモシー・ガートン・アッシュ
オックスフォード大学評議員

統合への道をさらに進めない限りこれまでの試みも失敗に等しい、とヨーロッパの人々が確信しているのなら、それこそこれまでの成果も台なしとなろう。事実、通貨統合への強制的な行進は、われわれが手にしている協調や平和という価値を脅かしつつある。すでにわれわれがヨーロッパの西半分で、リベラルな秩序を確立し、協調、平和、自由という価値を諸制度のなかに織り込むという大きな成果をあげているのを忘れてはならない。欧州連合(EU)、NATO、欧州評議会、全欧安保協力機構などは、そうしたリベラルな秩序を構成する積み石なのだ。拙速に通貨統合を急ぐのではなく、こうした制度に織り込まれた価値をヨーロッパの東側へと広げていくことこそ、グローバル時代、そして二十一世紀に向けたヨーロッパのビジョンとして過不足なくふさわしい。あまりに遠大な目的を性急に実現しようとして危機を招くよりも、まず足元にある成果を広げていくことこそ、現実的方策ではないか。

ロシアこそがユーラシア秩序再生の要

1998年5月号

ヴァレリー・V・ツェプカロ  駐米ベラルーシ大使

現状の分散化・分裂化現象が続く限り、法や正義ではなく、再び利益や力のバランスによってユーラシア秩序を回復せざるを得なくなり、新たな、そして不吉な「歴史の始まり」が導かれるだろう。ユーラシアの分裂状況を放置すれば、中央アジアやコーカサスでの紛争が他の諸国を巻き込み、トルコ、イラン、中国、日本、そして欧米諸国の利益の錯綜や対立がこの大陸をカオスへと突き落としかねない。米国のユーラシアでの影響力には限界がある。秩序再生は、あくまでロシアによる過去と現在を踏まえた新理念の構築にかかっている。

EMUと国際紛争

1998年2月号

マーチン・フェルドシュタイン  ハーバード大学経済学教授

「ヨーロッパ内で戦争が起きるというシナリオ自体忌むべきものだが、それでも、まったくありえないとは断言できない」。EMU(欧州経済通貨同盟)と欧州政治統合がその帰結として伴う紛争の危険は、無視するにはあまりに真実味を帯びているのだ。金融政策の舵取りをひとり欧州中央銀行に任せれば、失業、インフレなどの面でそれぞれに異なる状況にある諸国に単一の政策が採られるようになり、各国の政府がこれにあまねく満足することはありえず、大きな紛争の種になるだろう。実際、経済政策をめぐる対立や国家主権への干渉が、歴史、民族、宗教に根ざす長期に及ぶ敵対感情を増幅しかねない。問題はそれだけではない。ソ連の脅威が明らかに消滅した以上、ヨーロッパと米国の外交、経済、安全保障上の立場の違いがいずれ表面化するのは不可避であり、より堅固な政治統合を導くようなEMUの発足はこうした傾向を間違いなく加速することになるだろう。

漂流するヨーロッパ

1998年2月号

デビッド・カレオ  ジョンズ・ホプキンス大学教授

ヨーロッパは、冷戦構造に替わる新たな統合原理をいまだに見いだしていない。そのような原理は本来連邦主義だったはずだが、今日のヨーロッパは、各国がいがみ合い、経済的困難が増している状態にあり、「共同の政策決定が可能な政治的統一体」にはどうやらなりそうにもない、と著者は言う。だが、実際には中央集権的ヨーロッパが現実的な選択肢となったことは一度もなく、それが達成されなかったとしても失敗とみなすべきではない。それぞれ独立を維持することを堅く決意しつつも、政策面で協力せざるをえない独仏関係を中心とするヨーロッパ合衆国。これこそ、今後長期的にみたヨーロッパの現実の姿なのだ。経済通貨同盟への道が平坦でないのはたしかだが、ヨーロッパ諸国はこの実現に向けて誠実に努力し、EU拡大の道をいずれ見いだすだろう。

市民的自由なき民主主義の台頭

1998年1月号

ファリード・ザカリア/フォーリン・アフェアーズ誌副編集長

いまや尊重に値するような民主主義に代わる選択肢は存在しない。民主主義は近代性の流行りの装いであり、二十一世紀における統治上の問題は民主主義内部の問題になる公算が高い。目下、台頭しつつある市民的な自由、つまり人権や法治主義を尊重しない非自由主義的な民主主義が勢いをもつようになれば、自由主義的民主主義の信頼性を淘汰し、民主的な統治の将来に暗雲をなげかけることになるだろう。選挙を実施すること自体が重要なのではない。選挙を経て選出された政府が法を守り、市民的自由を尊重するかどうか、市民が幸福に暮らせるかどうかが重要なのだ。行く手には、立憲自由主義を復活させるという知的作業が待ちかまえていることを忘れてはならない。もし民主主義が自由と法律を保護できないのであれば、民主主義自体はほんの慰めにすぎないのだから。

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