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ヨーロッパに関する論文

完全な失敗としてのコソボ

1999年9月号

マイケル・マンデルバーム  外交問題評議会フェロー

コソボ紛争は奇妙な戦争であったし、戦争を周到な政策の延長とみれば、これは完全な失敗だった。コソボのアルバニア系住民は、「民族自決権」に基づく独立を求めて戦った。一方、セルビア人は「既存の国境線の不可侵」という原則を盾にコソボをユーゴスラビアの一部に留め置こうと戦ってきた。かたやNATOといえば、コソボには自治権が認められるべきだという立場をとりつつも、それでもコソボはユーゴの一部にとどまるべきだと主張した。当然、戦争が終わったときも、主権にまつわる中核的な政治問題は未解決のままだった。NATOは介入して紛争勢力の一方を打破しつつも、戦争目的をめぐっては、うち負かした側が掲げていた大義を共有していたからである。つまりコソボはNATOの軍事的成功ではあっても政治的には大失策だったのだ。

バルカンのナショナリズムは消えない

1999年8月号

ウィリアム・W・ハーゲン  カリフォルニア大学歴史学教授

バルカンにおける民族間の対立は古代からのものではなく、近年のスロボダン・ミロシェビッチによる権力の掌握をきっかけとしたものでもない。それはオスマン・トルコ帝国が解体した後のこの地域でのナショナリズムの高揚にそもそも端を発するものだ。バルカンの独裁制、共産主義体制が「血の報復という価値観」を伴うナショナリズムと不可分の形で結びついていたため、オスマン・トルコ崩壊以後の政治体制のなかでも民族主義は生き残り、旧ユーゴの解体に伴う国境線の変更を契機に、これが一気に表舞台へと噴出した。こう考えると、ポスト・チトーのユーゴでリベラリズムが支配的となる余地はそもそもないに等しかった。欧米の基準では考えられぬような残忍な行為が行われたのは、こうした「血の報復」という集団的な価値観が背景に存在したためである。したがって、ミロシェビッチをヒトラーにたとえるような個人に問題を帰する見方よりも、紛争後のコソボ問題を戦後の連合国によるドイツ占領と比較する社会改革的視点のほうが有益だろう。リベラルで民主的な市民社会運動がより深く根を張れるようにならない限り、この地域に平和と安定がもたらされることはあり得ないのだから。

コソボ危機が変える米欧関係の今後

1999年7月号

ピーター・ロッドマン ニクソン・センター国家安全保障問題ディレクター

コソボ問題を契機に、ヨーロッパ、アメリカの双方とも、お互いの存在なしにはヨーロッパでの重要な目標を実現するのは不可能だということを再認識したようだ。しかし、もしコソボで失敗すれば、ヨーロッパ各国の指導者は、「嫌いなアメリカ」に依存しつつも意に沿わない結果に甘んじたという国内での批判にさらされるだろう。事実、アメリカとの協力体制が、ヨーロッパ各国の極左政治勢力からの非難にさらされたため、各国の指導者は「人道的見地」からのNATOの結束を強く訴えてきた。だが、ミロシェビッチとのあいまいな妥協によってコソボ危機に終止符が打たれるとすれば、人道主義を訴えてきただけにヨーロッパ人の幻滅感は強く、政治的な余波も大きいだろう。その場合、ヨーロッパの国内政治力学とアメリカの覇権に対する反発を欧州の指導者たちは抑えこめるだろうか。コソボが問いかけているのは、たんに人道主義介入の是非と課題だけでなく、NATOを中心とするアメリカとヨーロッパの関係そのものなのだ。

国連憲章と新介入主義の行方

1999年7月号

マイケル・J・グレノン  前・米上院外交委員会法律顧問

国家間紛争を前提とする「時代遅れの国連憲章」による厳格な介入規定に縛られ、国内紛争がつくり出す悲劇に見て見ぬふりをするのは、もはや合理的でも賢明でもない。世界の平和と安定に対する切実な脅威は、いまや国家間紛争ではなく、国内紛争から派生しているからである。NATOによるコソボへの空爆は、正義を重視する新介入主義理念の発露ともとらえられる。事実、この新レジームの下では、大量虐殺のように、「介入しないことによる人道的損失があまりに大きい場合」は介入することが適切であると見なされている。だが、国連憲章が完全に死文化したわけではなく、コソボをめぐっては、(介入という)正義の理念と(内政不干渉を唱える)国連憲章が衝突している。だが、新介入主義の支持者たちは、法に挑戦することと「法の支配」に挑戦することとはまったく意味が異なり、(NATOが国連憲章に対して行ったような)不適切な法に対する挑戦は、法レジームをむしろ強化できることを肝に銘じるべきだろう。新システムの課題は、この新レジームならびに、それを基盤とする軍事行動が人々に正当なものと受け止められるかどうかにある。この点からも、正義を貫くことこそ法的な裏付けを得る最善の方法であることを忘れてはならない。正義を実現しさえすれば、正義を反映できるような法システムの確立にも自ずと道が開けてくるからだ。

コソボ紛争は分離独立でしか決着しない 

1999年6月号

クリス・ヘッジ ニューヨーク・タイムズ  前バルカン支局長

一九九五年のデイトン合意は、自治や独立を求めるコソボのアルバニア人にとっては,死亡宣告に等しかった。まずコソボ問題を解決すべきだとそれまで主張していた欧州連合(EU)が、まるで手のひらを返したように新ユーゴを承認したからである。一度火がついた以上、もはやコソボ紛争が短期で解決することはありえない。セルビア人のナショナリズム、そしてユーゴ紛争の犠牲者が本当は自分たちであるとみなす厄介な自己認識は、欧米が攻撃を加えればますます高まっていく。一方、穏健派指導者のルゴバが支持を失った後、アルバニア民衆の支持を集めているコソボ解放軍(KLA)といえば、大規模な義勇兵の予備軍を擁しているだけでなく、アルバニアとの国境線が開放的であることを利用して、兵器の供給や新規の兵士リクルートのラインを確保している。しかも、セルビア人とコソボのアルバニア人の双方とも、武力行使こそ袋小路を打開する手だてであると確信しており、対立の溝が深いことを考えると、交渉による妥結はほぼあり得ない。とすれば、国際コミュニティーが長期的にコソボに平和維持部隊を置いたところで、撤退後に双方が再び銃をとる可能性は高い。「KLA率いるコソボが、交渉によってであれ、暴力によってであれ、セルビアから分離独立する」。これが最も可能性の大きいシナリオなのだ。

金融政策の民主的管理を提唱する

1999年6月号

シェリ・バーマン プリンストン大学助教授   キャサリン・R・マクナマラ プリンストン大学助教授

政治的に高度な独立性を備えた中央銀行に、金融政策の決定権を委ねるというのが昨今の流行である。金融政策を成功へと導くには秩序立った長期的視野が必要なため、短期的で政治的になりがちな政策決定プロセスに委ねることはできない、というのがその理屈だ。だが、はたして高度な独立性を持つ中央銀行による決定が、経済を豊かにしていると言えるのか。それは、民主的統治というわれわれのシステムの基本からの逸脱を認められるほどに大切なのか。その答えはノーと言って差し支えないだろう。「ドイツ連邦銀行のインフレ・ファイターとしての役目は、この組織に法による独立性が認められていることによってではなく、むしろインフレ対策を経済政策の主要な目的とすることを市民が広く受け入れているという事実に根ざしているのだ」。中央銀行、とくに欧州中央銀行の独立性を支持する人々は、民主主義の本質はそれがつくりだす結末ではなく、その結末に至るプロセス、それが正統性を備えていくプロセスにあることを、再認識すべきではないか。

高齢化社会という灰色の夜明け

1999年3月号

ピーター・G・ピーターソン  外交問題評議会理事長

人口のほぼ一九%が高齢者で占められるフロリダ。これと同じ状況に先進諸国が直面するのは,そう遠い未来の話ではない。二〇〇三年にイタリア、二〇〇五年に日本、二〇〇六年にドイツがもう一つの「フロリダ」となる。イギリス、アメリカ、カナダもほどなくこれに続く。先進国社会の急速な高齢化がもたらす諸問題とコストは、投げだすのが合理的と判断しかねないほどにあらゆる意味で膨大である。各国の貯蓄は瞬く間に底をつき、財政が火の車になるだけではない。国内の政治力学、国際的資本の流れ、南北の力関係が逆転し、先進諸国から利他的な外交要素がなくなり、グローバルな安全保障が極度に不安定化する危険さえある。「自らの運命を管理し、より持続可能なコースへと道を変える時間的余裕があるうちに、現状を変革するしかない」。決断を下すべきは今で、「世界高齢化サミット」を開催し、この問題のための国際機関を設けることが急務だ。さもなくば、世界は「持続不可能な経済的負担と政治的・社会的苦難の後、悲痛な動乱の時代」へと突入することになりかねない。

コソボ・歴史をめぐる闘いは続く

1999年3月号

ノエル・マルコム  ケンブリッジ大学教授 / アレクサ・ジラス    前ハーバード大学ロシア研究センター研究員

昨年秋、『フォーリン・アフェアーズ』誌上で、元ハーバードの社会学者、アレクサ・ジラスは、コソボをテーマとするノエル・マルコム(ケンブリッジ大学の社会学者)の著作『コソボ概説史』を書評に取り上げた。(注1)ジラスは、筆者のマルコムは「分離独立を求めるコソボのアルバニア人に同情的すぎるし、その立場も反セルビア的で、バルカン問題をめぐる勝手な思いこみがすぎる」と手厳しく批判した。これに対して、マルコムは、「アルバニア人によるコソボの歴史の解釈よりも、セルビア人のコソボ史解釈のほうがより多くの虚構を内包しているのは明らかだ」と、アルバニア人の立場にたって反論する。「コソボ」は民族対立だけでなく、歴史解釈の対立の様相も持ち、それだけに根が深く、熾烈な闘いは学問領域にも及んでいる。以下は、ジラスの書評に対するマルコムの反論と、ジラスによる再反論。

アメリカは「ユーロ・バッシング」をやめよ

1999年1月号

ウィリアム・ウォレス ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE) 上級講師 ジャン・ジエロンカ ユーロピアン・ユニバーシティー・インスティテュート 政治学教授

アメリカはヨーロッパ側のまとまりのなさ、同盟関係への貢献の低さ、経済の低迷、社会保障制度の問題を嘆きながらも、ヨーロッパが単独でまとまり、イニシアチブを発揮しようとすると警戒感を示す。さらに、こうした「ユーロ・バッシング」的見方は、アメリカが抱くヨーロッパ像のコンセンサスは反映していても、ヨーロッパの現実にはそぐわない。ヨーロッパは応分な貢献をなし、経済は復調し、社会保障制度も広い観点から見れば硬直化などしていない。むしろ、問題は身勝手なアメリカにあるのではないか。国際機関や国際法を都合のいいときだけ利用し、都合が悪くなれば批判あるいは無視する。そして、国内政治の力学に派生する、ちぐはぐな外交政策に関してさえ、ヨーロッパの支持を当然視するアメリカの傲慢な態度に問題はないのか。「より踏み込んだ責任分担を求めつつ、ヨーロッパ側の政策のすべてを拒絶する、現在のアメリカのアプローチでは、アメリカの最も重要な同盟諸国を離反させる危険がある」。長期的なパートナーシップには、相互の思いやりと双方向のコミュニケーション・チャンネルが必要なことをアメリカは再認識すべきだろう。

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