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世俗化する社会とキリスト教一致運動
―― ベネディクト16世の遺産と新教皇
The Church Undivided
―― Benedict's Quest to Bring Christians Back Together
2013年7月号 掲載論文
キリスト教は11世紀に東方教会と西方カトリック教会に分裂し、16世紀の宗教改革(プロテスタント運動)でさらに分裂した。だが21世紀の現在、キリスト教はこうした過去の亀裂を修復しつつある。2013年に教皇を退任したベネディクト16世は「キリスト教の一致」を強く模索し、2012年の司教会議に招いたゲストの中にはロシア正教会のイラリオン渉外局長、トルコ正教会のバルトロメオ1世がいた。そして、ここで演説を行ったのは英国国教会のローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教だった。この流れは、先進国における世俗化と物質主義の波によってキリスト教の存続が脅かされているという危機感を各派が共有していることによって形作られている。「キリストは神であり救い主であり、隣人を愛することは信仰上の義務である」という信念に比べれば、これまでキリスト教の一致を妨げてきた教理上の違いなど取るに足らないという認識が高まりつつある。
- キリスト教の分裂と一致
- キリスト教一致運動
- レーゲンスブルク演説とイスラムとの関係悪化
- イスラムそしてトルコ正教会との対話
- ロシア正教との関係修復
- 英国国教会、プロテスタント派との協力
- フランシスコの時代
<キリスト教の分裂と一致>
カトリック教会は予算、人員、世界的ネットワークという点でみれば国連に匹敵する存在であり、武力に訴えることなく寛容と平和の精神を促進してきたという意味では類なき実績をもっている。約2000年にわたる歴史の中で、何度も容赦ない攻撃の対象にされてきたが、神の愛と隣人愛そして自己犠牲というキリスト教のメッセージは大きな影響力をもち続けてきた。例えば、ソビエト政府は宗教を禁止し教会を閉鎖したが、結局生き残ったのはキリスト教(東方正教会)で、共産主義は崩壊した。
今やキリスト教は、過去における多くの内的な分裂を修復しつつある。キリスト教は11世紀に東方教会と西方カトリック教会に分裂し、16世紀の宗教改革(プロテスタント運動)でさらに細かく分裂した。しかし現在では、こうした亀裂を修復し、これまで以上に力強い勢力になりつつあるようだ。
2013年2月に教皇を退任したベネディクト16世が着手したキリスト教の一致を目指す流れを、新教皇フランシスコも踏襲していくだろう。とはいえ、2005年にベネディクト16世が教皇に就任した当時は、彼がこの領域で多くを達成するとは誰も考えていなかった。教皇就任前はヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿として教皇庁教理省長官を務め、厳格な伝統主義者として知られ、ワシントン・ポスト紙に「正統主義の番人」と書かれたこともあった。
しかし権威ある神学者であることとドイツ出身という背景が、ベネディクト16世がキリスト教の一致を目指す上で大きな助けになった。実際、1054年の大シスマ(東西教会の分裂)と16世紀の宗教改革を乗り越えて異なる教派との対話を促進するという点で、ベネディクトは教皇としての8年間に、ヨハネ・パウロ2世を含む歴代教皇以上のことを成し遂げた。このプロセスにおいて、彼はバチカンの世界観がワシントンの世界観とは異なることを明確にし、宗教問題や道徳問題、政治問題でキリスト教各派の協力を拡大する道を切り開いた。現教皇フランシスコも出身国アルゼンチンで宗教間協力と対話を推進してきた実績をもつ指導者で、ベネディクトの努力を継続していくのは間違いないだろう。
<キリスト教一致運動>
キリスト教には、カトリック教会(信徒12億人、全キリスト教徒の約50%)、無数の教派に分かれているプロテスタント(8億100万人、全体の37%)、そして東方正教会(2億6000万人、全体の12%)と、大きく分けて三つのグループがある。ちなみに正教会の信徒の39%はロシアに集中している。「宗教・公共生活に関するピュー・フォーラム」によると、カトリックの信徒数が急激に増えているのはアジアとアフリカにおいてだ。プロスタントも世界的な広がりをみせているが、信徒の多い上位10カ国のなかで、北米またはヨーロッパの国は二つしかない。
その一方で、近年では3教会の距離が近づき、エキュメニズム(キリスト教一致運動)が広がりをみせている。この運動は、社会の世俗化によってキリスト教の価値が周辺化されつつあること、そして近年のキリスト教徒に対する暴力の広がりに対する危機感に根ざしている。こうした危機感がキリスト教徒を結束させてきたが、その流れはベネディクトの努力によって今後も継続されるように制度化されている。
そもそもエキュメニズムの基盤は、ベネディクトが教皇に就任する前から存在した。まず第2バチカン公会議(1962―65)が、カトリック教会のあり方を根本的に変え、幅広いキリスト教諸派の一致に道を開いた。同会議の主要文書の一つで、1964年に布告された「エキュメニズムに関する教令」は、「全キリスト教徒の一致の回復」を長期目標に定めている。この中で、他の教派で洗礼を受け信仰告白を行ったキリスト教徒は、従来のような「異端者」ではなく「分かれた同胞」と表現されている。同じく1964年、カトリック教会と東方正教会は相互破門制度をなくし、対話をスタートさせた。
ヨハネ・パウロ2世はこうした努力をさらに前進させた。複数のプロテスタント教派と親交を深め、アメリカ聖公会の司祭および教区を受け入れ、ルーテル世界連盟(世界79カ国の信徒7050万人の統括団体)と「義認(神によって罪人が救われること)の教理に関する共同宣言」に調印して、「義認」をめぐる教理上の大きな違いを克服した。さらに1999年のルーマニアを皮切りに、ブルガリア、グルジア、ギリシャ、ウクライナと正教会の信徒が大多数を占める国を、ローマ教皇として初めて訪問した。それでも当時、正教会でもっとも影響力があったロシア正教会の総主教アレクシー2世に会うことはできなかった。
これは冷戦期のソビエトが、ポーランド人の教皇を反共産主義の指導者とみなしていたせいでもある。しかし共産主義の崩壊後も、カトリック教会と正教会は明らかにわだかまりを抱えていた。カトリック教会はソビエト政府が数千の教会財産を押収・破壊したと主張し、一方、ロシア正教会は、ソビエト崩壊後のロシアで、カトリックなどの宗教組織が伝道活動を積極的に展開するのでないかと不安を感じていた。さらに、ポーランドとロシアの歴史的反目、1990年代にバチカンがロシアにおけるカトリック教会の機構改革に失敗したことなども、両者の間にわだかまりを作り出していた。
カトリック教会とロシア正教会の関係がもっとも悪化したのは2002年。ロシア政府は、シベリア地方のカトリック教会再建に力を注いだポーランド人のイエジ・マズール(Jerzy Mazur)司教ら聖職者の再入国を拒否した。これに対してバチカンのロシア地域担当者であるタデウス・コンドロシェービッチ大司教は、「ロシアでカトリック教会に対する組織的妨害活動が行われている」と不満を表明した。
<レーゲンスブルク演説とイスラムとの関係悪化>
しかし2005年4月にベネディクト16世が教皇に就任すると、緊張が緩和し始めた。システィーナ礼拝堂で教皇として初めて行ったミサで、ベネディクトはキリスト教の和解に向けた明確な基礎を(三人称の形で)示した。「現教皇は、キリストに従うすべての人々の完全で目にみえる一致を回復するため、労苦を惜しまず働くことを第1の任務とする。これこそが(現教皇が)渇望することであり、やらなければならない責務である。そのためには善意の表明だけでは足りないことを(現教皇は)理解している」
ベネディクトは直ちに行動を開始した。教皇就任から4カ月後、初の外国訪問先に選んだドイツで、彼は福音主義教会を含むプロテスタントの指導者たちに会い、エキュメニズムとは「教理と精神性の表現、典礼の形式、規律のすべてにおける一致を意味するわけではない」と語っている。「多様性における一致、一致における多様性」を唱えて、「さあ、この道をともに歩もう。ともに歩むことが、一致のひとつの形だという認識をもって」という言葉で演説を締めくくっている。さらにベネディクトは、各宗教とも「神」という同じ言葉を使っていることを認識し、生命の保護や平和促進で協力することで、宗教間の対話を促すと約束した。
だがベネディクトは2006年、うかつな発言で宗教間の対話促進という目標を自ら傷つけてしまう。2006年9月にドイツ・レーゲンスブルク大学で行った演説で、ベネディクトは14世紀のビザンチン帝国皇帝が語ったとされる、イスラム教の開祖ムハンマドを軽んじた発言を引用した。「『ムハンマドがどんな新しいことをもたらしたというのか。自らが説く信仰を剣によって広めよと命じるなど、邪悪で非人間的なことしかしてないではないか』」
教皇は、暴力によって改宗を強いるといった非合理的行為は、神の本質に反するかという問題を掘り下げるために、この発言を引用したに過ぎない。またベネディクトは、皇帝の発言の「驚くべき無礼は許されない」とまで語っている。しかし引用は文脈からは切り離され、イスラム世界全体で激しいベネディクト非難が巻き起こった。バチカンは「心からの遺憾の意」を表明したが、暴動は拡大し、ヨルダン川西岸とガザ地区では教会が爆破され、ソマリアの首都モガディシオでは65歳の修道女が殺害された。
この演説によってベネディクトは、既にイスラム世界で広がっていたジョージ・W・ブッシュ米大統領の外交政策へのマイナスイメージと結びつけられてしまった。イスラム世界では、多くの人が教皇のコメントを、アメリカ主導の「対イスラム戦争」を肯定したものと受け止めたのだ。
実際にはバチカンの外交官たちは、「対テロ戦争」のもっとも重要な要素の一つであるイラク侵攻に強く反対していた。ヨハネ・パウロ2世は、イラク攻撃を思いとどまるように働きかけるためにブッシュに特使まで送っている。だがベネディクトはレーゲンスブルク演説のせいで、バチカンが強く反対していたアメリカの戦略の支持者とみられるようになり、教皇が守りたかった信徒とコミュニティーまでをも危険にさらすことになった。
<イスラムそしてトルコ正教会との対話>
失地回復を図るため、バチカンは2006年11月、ベネディクトにイスラム教国のトルコを訪問させた。当初の目的は、聖アンデレの日(11月30日)に合わせて東方正教会の精神的指導者であるコンスタンチノープル総主教バルトロメオ1世を訪問することだった(コンスタンチノープル総主教庁はアンデレを初代総主教としている)。ベネディクトの側近のなかには、イスラム教徒のさらなる反発を招く恐れがあるとして教皇のトルコ訪問に反対する者もいた。実際、イスタンブールでは教皇がやってくる2日前に、2万5000人規模の反対デモが起きていた。
しかしベネディクトは、ヨハネ・パウロ2世並みの巧みな立ち回りで騒動を鎮静化した。まずイスタンブールのスルタン・アフメット・ジャーミイ(Sultan Ahmed Mosque)(通称「ブルーモスク」)を訪問した(モスクを訪問したローマ教皇はヨハネ・パウロ2世に次ぎ二人目だ)。ムフティ(イスラム法学の権威)のムスタファ・チャウルジュ師とイマーム(指導者)に伴われてモスクに入る際、敬意を示すために赤い「教皇靴」を脱ぐと、チャウルジュの隣に座ってメッカの方を向き、ともに祈りの言葉を唱えた。教皇がイスラムに敬意を払う様子をみて、一般のイスラム教徒の怒りも収まっていった。
ベネディクトの振る舞いは、イスラム教指導者たちにも好意的に受け止められた。例えばその1年後、イスラム教の聖地メッカの守護者であるサウジアラビアのアブドラ国王は、サウジ国王として初めてバチカンを訪問している。サウジにはフィリピン人出稼ぎ労働者を中心に約100万人のカトリック教徒がいるが、イスラム以外の宗教行為は制限されているため、バチカンとしてはサウジとの関係構築には現実的な意味合いがあった。またベネディクトは2009年にヨルダンとパレスチナ自治区、2012年にはレバノンに招かれている(これが教皇としての最後の外国訪問となった)。
ベネディクトはトルコで、厳戒な警備が取られるなかで、正教会の指導者であるバルトロメオ1世にも会っている。コンスタンチノープル総主教の座所である聖ゲオルギオス大聖堂(the modest Church of Saint George)で、バルトロメオがベネディクトを「愛する兄弟」と迎えると、ベネディクトは詩篇133を引用して「みよ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」と応えた。
二人はエキュメニズムを推進するとともに、神の愛を通じて平和を推進することに合意した。カトリック教会と正教会の双方が聖人とみなすヨハネス・クリュソストモス(John Chrysostom)とナジアンゾスのグレゴリオス(Gregory of Nazianzus)の墓の前で祈りを捧げた。二人の遺骨は1204年の第4回十字軍でコンスタンチノープルが陥落した際、ローマに奪われていたが、ヨハネ・パウロ2世が死去する5カ月前に返還された。
最後にベネディクトとバルトロメオは聖ゲオルギオス大聖堂のバルコニーに姿を現し、共同宣言を発表すると、つないだ手を高らかに上げた。このとき二人は、カトリック教会と正教会の専門家30人からなる教理委員会が、6年ぶりに集まって両教会間の教理上の違いを少なくしたことは「大きな喜びだ」と語っている。
トルコ正教会の規模は決して大きくなく、近年トルコのイスラム化が進んでいることもあって、一段とマイノリティー化している。だがベネディクトは歴史的に東西の架け橋となってきたトルコのキリスト教コミュニティーをサポートすることで、イスラム教徒の反感に対処できることを示した。
その後バルトロメオはローマを何度も訪れ、そのたびに東西教会間の分断を少しずつ修復してきた。2008年6月にはベネディクトとともにサンピエトロ大聖堂でミサを行い、二人でニカイア信条をギリシャ語で唱えた。ただしこのとき、バルトロメオは正教会が認めない、「(聖霊は父)と子から」という文句を省いて論争を未然に防いだ。こうしてベネディクトは、東西教会の協力を妨げてきた重大な教理上の不一致を乗り越えた(あるいは少なくとも棚上げした)。
<ロシア正教との関係修復>
しかし東西教会間の対話をもっとも深めるきっかけとなったのは、やはり、2009年1月にロシア正教のモスクワ総主教にキリル1世が就任したことだろう。キリルはそれまで20年間にわたって、ロシア正教会の渉外局長として、実質的に外相の役割を果たしてきた。バチカンへの対応に当たってきたのもキリルで、ベネディクトがラッツィンガー枢機卿だった時代から二人は協力関係にあった。
バチカンの関係者によると、キリルがヨハネ・パウロ2世とベネディクトに信頼されたのは、その家系のおかげもあるようだ。キリルの祖父は1933年にソビエトに逮捕され迫害されたロシア正教の司祭で、父親も司教、兄は長司祭であると同時に神学校の教授だった。
キリルとベネディクトは、西洋文明の存続は美徳と自由というキリスト教的価値観にかかっているという考えを共有しており、自然と親しくなった。ドイツとソビエトという全体主義の抑圧を経験した二人は、世俗主義の蔓延はモラル崩壊の前兆であり、社会不安や圧制をもたらす恐れがあると考えていた。イスラム過激主義と、過激派のキリスト教徒に対する暴力への懸念も二人は共有していた。
モスクワ総主教となったキリルは、自らのアイディアを実現できる強力な地位を得た。信徒の増加とロシア政府との緊密な協力関係は、ロシア正教会の影響力と重要性を高めた。ロシアでは1987―2009年までの間に正教会の修道院が3カ所から478カ所に、神学校は2カ所から25カ所に、教会は2000カ所から1万3000カ所に増えている。
ロシア正教とカトリック教会の政治的関係は、ベネディクトの時代に入って大きく改善した。ロシアとバチカンは2010年、ボリシェビキ革命(1917年)以来初めて完全な外交関係を結び、互いに大使を派遣した。
ベネディクトのロシアへのアプローチは、数世紀にわたるポーランドとロシアの不和を修復する助けにもなった。2012年夏、カトリック教会のポーランド人司教とロシア正教会の総主教たちがポーランドに集まり、「お互いの偏見」を克服するようにポーランド政府とロシア政府に訴えている。
ロシア正教の総主教が現代のポーランドを訪問するのは初めてだったため、その一部始終がポーランドのテレビで紹介された。これらが実現したのはカトリック教会と正教会間の「雪解け」のおかげもあるが、ウラジーミル・プーチン大統領とベネディクトの親交もプラスに作用した。二人は2007年3月にバチカンで初めて顔を合わせたとき、教皇の母国語であるドイツ語で言葉を交わした。ウィキリークスが公開した米国務省の外交公電によると、ロシア正教徒のプーチンは、「両教会の対話促進のためにやれることは何でもする」と約束した。バチカンはワシントンと違って、ヨーロッパやラテンアメリカと同様に、ロシアも西洋文化の一部とみなしている。
カトリック教会とロシア正教会トップの良好な関係は今後も続くだろう。キリルの後任としてロシア正教会の渉外局長に就任したイラリオン・アルフェエフ(46)府主教は作曲家でもあり、若手の指導者として注目されている。彼はアメリカやヨーロッパでも人気があり、バチカンでも広く知られている。
イラリオンはカトリック教会と正教会が道徳的な問いに対して統一的な回答を示し、西洋の「キリスト教離れ」を食い止めるために協力する重要性を唱えている。例えば2009年に欧州人権裁判所が、欧州人権条約に違反するとして、イタリアの公立学校からすべての十字架を取り外すよう命じる判決を下したとき、カトリック教会、ロシア正教会、そしてギリシャ正教会は協力して、上級審で判決破棄に持ち込んだ。
より最近では、パンクバンド「プッシー・ライオット」のメンバー三人が、モスクワの歴史ある聖堂の祭壇でゲリラライブを行い、刑務所送りになったとき、ロシア政府は国際的な非難を浴びたが、カトリック教会とプロテスタントの複数の教派は(ロシア政府と)正教会を支持する書簡を送っている。これについて欧州カトリック司教協議会は次のように説明している。「実際には神聖な静寂を壊したり、市民生活における信仰や宗教施設に憎悪をかきたてたりといった挑発的な扇動行為であるにもかかわらず、それを芸術の自由や表現の自由と取り違える風潮を(われわれは)拒絶する」
キリルはフランシスコの教皇就任を祝福する書簡で、ベネディクト時代に両教会間で好ましい関係が育まれたことを称えている。そして、迫害されるキリスト教徒を守るとともに、「現代の世俗的な社会で伝統的な道徳観」を促進する必要性を強調した。フランシスコも東方正教会と無縁ではない。彼はアルゼンチンでの枢機卿時代に、東方典礼カトリック教会(東方教会の典礼を用いつつローマ教皇権を認めている教会)の裁治権者の役割を担っていた。
<英国国教会、プロテスタント派との協力>
キリスト教の一致に向けて前例のない試みをしたベネディクト16世は2012年10月、司教会議に特別ゲストを招いた。その中にはロシア正教会のイラリオン渉外局長と、トルコ正教会のバルトロメオ1世がいた。さらに英国国教会のローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教が祈りや宗教活動や知恵の基礎となる瞑想の重要性について演説を行った(英国国教会の精神的指導者が司教会議で演説するのは初めてだった)。その翌日にはバルトロメオとベネディクトが揃って第2バチカン公会議50周年を祝うミサに出席した。
ウィリアムズとベネディクトは、ベネディクトが2010年にイギリスを訪問して、英国国教会からカトリックに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿を列福するミサに出席して以来良好な関係を築いてきた。この訪英中、ベネディクトはローマ教皇として初めてウェストミンスター寺院に足を踏み入れた。同寺院は16世紀半ばにヘンリー8世がカトリック教会からの離脱を決断するまで、ベネディクト会の修道院として使われていた。しかし基本的にヘンリー8世が問題視したのは、カトリック教会が教皇を頂点としている点のみであり、カトリックの教理自体は問題視していなかった。このためカトリック教会と英国国教会(アメリカでは聖公会)の間に教理上の相違はほとんどなく、和解も難しくなかった。
実際、ベネディクト時代にカトリック教会と英国国教会の関係は改善した。ベネディクトは2011年、イギリスの司教たちの反対を押し切る形で、英国国教会の司教区をカトリックとして完全に受け入れる使徒憲章を承認した。これは、イギリスとアメリカとオーストラリアに「属人的司教区(オルディナリアーティ・ペルソナーリ)」を導入して、英国国教会や聖公会の「典礼上の伝統、霊的伝統、そして聖職者の伝統」を維持しつつ、カトリックへの改宗を希望する聖職者(結婚した司祭を含むが、結婚した司教は含まない)と信徒を受け入れる制度だ。各司教区の裁治権は改宗した聖公会の聖職者が保有し、この裁治権者は教皇の監督下に置かれる。こうした措置は、英国国教会・聖公会信徒から寄せられた改宗希望に応じたもの、というのがバチカンの説明だ。その希望者には50人以上の司教が含まれるという。
この措置は、カトリック教会が英国国教会の信徒を横取りする行為とみなされる恐れがあった。それだけにウィリアムズがベネディクトと友好的な関係を維持し、さらにカトリックの礼拝に参加したのは驚くべき出来事だった。英国国教会の指導者たちは、ベネディクトの行動を「盗み」ではなく、キリスト教という共通のアイデンティティーを維持する手段と受け止めたのだ。
2013年1月にウィリアムズに代わりカンタベリー大主教に就任したジャスティン・ウェルビーは、3月にベネディクトが教皇を退任した際、その「大いなる尊厳、洞察力、勇気」を称えた。フランシスコも英国国教会のリーダーたちに尊敬されている。同教会アルゼンチン教区のグレゴリー・ベナブルズ大司教は、フランシスコは「単なる聖職者というより(正に)キリスト教徒であり、キリストを中心に考える聖霊に満ちた人物」だとしている。「彼は常に謙虚で賢く、並外れた才能の持ち主でありながら普通の人物として振る舞っている」
ベネディクトはプロテスタント諸派との和解にも力を入れた。カトリック教会の腐敗に抗議する形で始まったプロテスタントは、主に四つの点でカトリックと異なる。第1に、プロテスタントは救済とはキリストへの信仰によってのみもたらされるものと考えるが、カトリックは救済とは神の恵みに人間が信仰と善行によって応えるプロセスだと考える。第2に、プロテスタントは教皇を頂点とする聖職者のヒエラルキーを否定している。第3に、プロテスタントは信仰を導くのは聖書のみで足りるとするが、カトリックは聖書以外にも使徒伝承などの聖伝を重視する。第4に、ほとんどのプロテスタントの教派は、聖体拝領(聖餐)をキリストの犠牲を象徴するものと解釈するが、カトリックは聖体そのものと考える。
こうした教理上の違いを考えると、1999年にキリスト教一致推進評議会とルーテル世界連盟が、「義認の教理に関する共同宣言」に調印したのは驚くべきことだった。この共同宣言は約500年にわたる教理論争を乗り越え、共通の未来へと道を開くとともに、過去の相互非難を取り消すものとなった。さらに2006年、世界メソジスト協議会(信徒8000万人)も満場一致でこの共同宣言に調印することを決めた。
キリスト教の一致は、フランシスコの下で一段と進められるだろう。エキュメニカルな雑誌クリスチャニティー・トゥデーは、フランシスコを「すべてのキリスト教徒の教皇」と呼んだが、実際フランシスコは、異なる宗派の指導者と親交を結び、ともに祈り、聖典を学んできたことで知られる。
<フランシスコの時代>
カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの間で共通認識を探る動きが進んできた背景には、ベネディクトの努力だけでなく、世界的なトレンドも関係している。特に先進国で世俗化と物質主義の波によってキリスト教の存続が脅かされるなか、信徒を一致させる力強い中核的理念、すなわち、キリストは神であり救い主であり、隣人を愛することは信仰上の義務であるという信念に比べれば、これまで一致を妨げてきた教理上の違いなど取るに足らないという認識が高まっている。
またキリスト教会や信徒に対する暴力が拡大するなか、各教派は政府や多国間機関に保護を求めてきた。その声は組織が大きいほど大きな影響力となる。その点、カトリック教会は世界180カ国と外交関係があり、ほとんどの国連機関に永久オブザーバーの立場で参加している。
キリスト教徒であることを理由に信徒が捕らわれる事件が、特にイスラム教徒が多数派の国で増えており、こうした幅広い外交ネットワークは、このような問題を解決する大きな手段になる。加えて、アメリカ以外のカトリック教会、正教会、プロテスタントの指導者たちは、「軍事介入を多用し、現地の文化と伝統には最小限の敬意しか払わない、2003年以降のアメリカの外交政策」によって、キリスト教徒の安全と平和的な対話という大義が危険にさらされていると感じている。
中絶や同性婚といった政治問題になると、生命や家族関係、異性間結婚、貧困者の保護を重視する伝統的なキリスト教徒は、所属する教会に関係なく結束してきた。彼らは正式な教理が刷新されるのを待たずに教派を超えた協力を強力に進めている。そこでは、キリスト教の一致が選択ではなく、緊急の要請として存在する。
「キリスト教の一致」を模索する活動は、フランシスコの下で今後も進められていくだろう。そう予想できるのは、新教皇がエキュメニカルな経歴の持ち主だからというだけでなく、社会における物質主義、不寛容、そして抑圧の危険が小さくなる気配がまったくないからだ。キリスト教一致推進評議会のようなメカニズムが既に存在することからみても、この運動が消えゆく運命にあるとは考えにくい。フランシスコは個人的にもキリスト教の一致に力を入れてきた。彼はこれまでの10年間、アルゼンチンのエキュメニカルグループである「聖霊におけるカトリック教会および福音派教会の新たな交わり」を精力的に指導してきた。
教派間の協力拡大が重要であることは、キリスト教のほとんどの教派で意見が一致している。もちろん一部での諍いや対立は今後も起きるだろう。ロシア正教の一部の聖職者は、カトリックとプロテスタントがロシア国内に新たに教会を建てていることをよく思っていないし、ラテンアメリカではカトリックの司教たちがプロテスタント諸派の拡大に警戒感を露わにしている。しかしキリスト教3大グループの指導者たちは、お互いの良好な関係を望んでおり、それを信徒たちの間にも広げようとしている。
ベネディクトの教皇としての最後の行為、すなわち教皇を最後まで務めるのではなく、自発的に退位するという驚くべき決断は、これまでキリスト教一致の最大の障害となってきた「教皇の権威」についてカトリック教会に再考を迫り、教派間の和解に寄与するはずだ。
フランシスコのこれまでの行動は、教皇のあり方を見直していることの表れだろう。教皇に選出された日の夜、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を現したフランシスコは、教皇のもっとも控えめな肩書きである「ローマ司教」と名乗った。服装も移動手段も質素なものを利用し、出身地アルゼンチンの聖職者や信徒には「お金がもったいないから自分の就任式には来ないように」と呼びかけた。こうした振る舞いはどれも、皇帝のようなローマ教皇の振る舞いを改める狙いがあることを示している(そして他の教派の指導者たちはこの試みを歓迎している)。
フランシスコが今後もカトリックの教理を守っていくことは間違いない。しかしその一方で、教皇としての働きの中心にキリストと福音を置くことによって、キリスト教の一致も推し進めていくだろう。●
カトリック教会は予算、人員、世界的ネットワークという点でみれば国連に匹敵する存在であり、武力に訴えることなく寛容と平和の精神を促進してきたという意味では類なき実績をもっている。約2000年にわたる歴史の中で、何度も容赦ない攻撃の対象にされてきたが、神の愛と隣人愛そして自己犠牲というキリスト教のメッセージは大きな影響力をもち続けてきた。例えば、ソビエト政府は宗教を禁止し教会を閉鎖したが、結局生き残ったのはキリスト教(東方正教会)で、共産主義は崩壊した。
今やキリスト教は、過去における多くの内的な分裂を修復しつつある。キリスト教は11世紀に東方教会と西方カトリック教会に分裂し、16世紀の宗教改革(プロテスタント運動)でさらに細かく分裂した。しかし現在では、こうした亀裂を修復し、これまで以上に力強い勢力になりつつあるようだ。
2013年2月に教皇を退任したベネディクト16世が着手したキリスト教の一致を目指す流れを、新教皇フランシスコも踏襲していくだろう。とはいえ、2005年にベネディクト16世が教皇に就任した当時は、彼がこの領域で多くを達成するとは誰も考えていなかった。教皇就任前はヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿として教皇庁教理省長官を務め、厳格な伝統主義者として知られ、ワシントン・ポスト紙に「正統主義の番人」と書かれたこともあった。
しかし権威ある神学者であることとドイツ出身という背景が、ベネディクト16世がキリスト教の一致を目指す上で大きな助けになった。実際、1054年の大シスマ(東西教会の分裂)と16世紀の宗教改革を乗り越えて異なる教派との対話を促進するという点で、ベネディクトは教皇としての8年間に、ヨハネ・パウロ2世を含む歴代教皇以上のことを成し遂げた。このプロセスにおいて、彼はバチカンの世界観がワシントンの世界観とは異なることを明確にし、宗教問題や道徳問題、政治問題でキリスト教各派の協力を拡大する道を切り開いた。現教皇フランシスコも出身国アルゼンチンで宗教間協力と対話を推進してきた実績をもつ指導者で、ベネディクトの努力を継続していくのは間違いないだろう。
<キリスト教一致運動>
キリスト教には、カトリック教会(信徒12億人、全キリスト教徒の約50%)、無数の教派に分かれているプロテスタント(8億100万人、全体の37%)、そして東方正教会(2億6000万人、全体の12%)と、大きく分けて三つのグループがある。ちなみに正教会の信徒の39%はロシアに集中している。「宗教・公共生活に関するピュー・フォーラム」によると、カトリックの信徒数が急激に増えているのはアジアとアフリカにおいてだ。プロスタントも世界的な広がりをみせているが、信徒の多い上位10カ国のなかで、北米またはヨーロッパの国は二つしかない。
その一方で、近年では3教会の距離が近づき、エキュメニズム(キリスト教一致運動)が広がりをみせている。この運動は、社会の世俗化によってキリスト教の価値が周辺化されつつあること、そして近年のキリスト教徒に対する暴力の広がりに対する危機感に根ざしている。こうした危機感がキリスト教徒を結束させてきたが、その流れはベネディクトの努力によって今後も継続されるように制度化されている。
そもそもエキュメニズムの基盤は、ベネディクトが教皇に就任する前から存在した。まず第2バチカン公会議(1962―65)が、カトリック教会のあり方を根本的に変え、幅広いキリスト教諸派の一致に道を開いた。同会議の主要文書の一つで、1964年に布告された「エキュメニズムに関する教令」は、「全キリスト教徒の一致の回復」を長期目標に定めている。この中で、他の教派で洗礼を受け信仰告白を行ったキリスト教徒は、従来のような「異端者」ではなく「分かれた同胞」と表現されている。同じく1964年、カトリック教会と東方正教会は相互破門制度をなくし、対話をスタートさせた。
ヨハネ・パウロ2世はこうした努力をさらに前進させた。複数のプロテスタント教派と親交を深め、アメリカ聖公会の司祭および教区を受け入れ、ルーテル世界連盟(世界79カ国の信徒7050万人の統括団体)と「義認(神によって罪人が救われること)の教理に関する共同宣言」に調印して、「義認」をめぐる教理上の大きな違いを克服した。さらに1999年のルーマニアを皮切りに、ブルガリア、グルジア、ギリシャ、ウクライナと正教会の信徒が大多数を占める国を、ローマ教皇として初めて訪問した。それでも当時、正教会でもっとも影響力があったロシア正教会の総主教アレクシー2世に会うことはできなかった。
これは冷戦期のソビエトが、ポーランド人の教皇を反共産主義の指導者とみなしていたせいでもある。しかし共産主義の崩壊後も、カトリック教会と正教会は明らかにわだかまりを抱えていた。カトリック教会はソビエト政府が数千の教会財産を押収・破壊したと主張し、一方、ロシア正教会は、ソビエト崩壊後のロシアで、カトリックなどの宗教組織が伝道活動を積極的に展開するのでないかと不安を感じていた。さらに、ポーランドとロシアの歴史的反目、1990年代にバチカンがロシアにおけるカトリック教会の機構改革に失敗したことなども、両者の間にわだかまりを作り出していた。
カトリック教会とロシア正教会の関係がもっとも悪化したのは2002年。ロシア政府は、シベリア地方のカトリック教会再建に力を注いだポーランド人のイエジ・マズール(Jerzy Mazur)司教ら聖職者の再入国を拒否した。これに対してバチカンのロシア地域担当者であるタデウス・コンドロシェービッチ大司教は、「ロシアでカトリック教会に対する組織的妨害活動が行われている」と不満を表明した。
<レーゲンスブルク演説とイスラムとの関係悪化>
しかし2005年4月にベネディクト16世が教皇に就任すると、緊張が緩和し始めた。システィーナ礼拝堂で教皇として初めて行ったミサで、ベネディクトはキリスト教の和解に向けた明確な基礎を(三人称の形で)示した。「現教皇は、キリストに従うすべての人々の完全で目にみえる一致を回復するため、労苦を惜しまず働くことを第1の任務とする。これこそが(現教皇が)渇望することであり、やらなければならない責務である。そのためには善意の表明だけでは足りないことを(現教皇は)理解している」
ベネディクトは直ちに行動を開始した。教皇就任から4カ月後、初の外国訪問先に選んだドイツで、彼は福音主義教会を含むプロテスタントの指導者たちに会い、エキュメニズムとは「教理と精神性の表現、典礼の形式、規律のすべてにおける一致を意味するわけではない」と語っている。「多様性における一致、一致における多様性」を唱えて、「さあ、この道をともに歩もう。ともに歩むことが、一致のひとつの形だという認識をもって」という言葉で演説を締めくくっている。さらにベネディクトは、各宗教とも「神」という同じ言葉を使っていることを認識し、生命の保護や平和促進で協力することで、宗教間の対話を促すと約束した。
だがベネディクトは2006年、うかつな発言で宗教間の対話促進という目標を自ら傷つけてしまう。2006年9月にドイツ・レーゲンスブルク大学で行った演説で、ベネディクトは14世紀のビザンチン帝国皇帝が語ったとされる、イスラム教の開祖ムハンマドを軽んじた発言を引用した。「『ムハンマドがどんな新しいことをもたらしたというのか。自らが説く信仰を剣によって広めよと命じるなど、邪悪で非人間的なことしかしてないではないか』」
教皇は、暴力によって改宗を強いるといった非合理的行為は、神の本質に反するかという問題を掘り下げるために、この発言を引用したに過ぎない。またベネディクトは、皇帝の発言の「驚くべき無礼は許されない」とまで語っている。しかし引用は文脈からは切り離され、イスラム世界全体で激しいベネディクト非難が巻き起こった。バチカンは「心からの遺憾の意」を表明したが、暴動は拡大し、ヨルダン川西岸とガザ地区では教会が爆破され、ソマリアの首都モガディシオでは65歳の修道女が殺害された。
この演説によってベネディクトは、既にイスラム世界で広がっていたジョージ・W・ブッシュ米大統領の外交政策へのマイナスイメージと結びつけられてしまった。イスラム世界では、多くの人が教皇のコメントを、アメリカ主導の「対イスラム戦争」を肯定したものと受け止めたのだ。
実際にはバチカンの外交官たちは、「対テロ戦争」のもっとも重要な要素の一つであるイラク侵攻に強く反対していた。ヨハネ・パウロ2世は、イラク攻撃を思いとどまるように働きかけるためにブッシュに特使まで送っている。だがベネディクトはレーゲンスブルク演説のせいで、バチカンが強く反対していたアメリカの戦略の支持者とみられるようになり、教皇が守りたかった信徒とコミュニティーまでをも危険にさらすことになった。
<イスラムそしてトルコ正教会との対話>
失地回復を図るため、バチカンは2006年11月、ベネディクトにイスラム教国のトルコを訪問させた。当初の目的は、聖アンデレの日(11月30日)に合わせて東方正教会の精神的指導者であるコンスタンチノープル総主教バルトロメオ1世を訪問することだった(コンスタンチノープル総主教庁はアンデレを初代総主教としている)。ベネディクトの側近のなかには、イスラム教徒のさらなる反発を招く恐れがあるとして教皇のトルコ訪問に反対する者もいた。実際、イスタンブールでは教皇がやってくる2日前に、2万5000人規模の反対デモが起きていた。
しかしベネディクトは、ヨハネ・パウロ2世並みの巧みな立ち回りで騒動を鎮静化した。まずイスタンブールのスルタン・アフメット・ジャーミイ(Sultan Ahmed Mosque)(通称「ブルーモスク」)を訪問した(モスクを訪問したローマ教皇はヨハネ・パウロ2世に次ぎ二人目だ)。ムフティ(イスラム法学の権威)のムスタファ・チャウルジュ師とイマーム(指導者)に伴われてモスクに入る際、敬意を示すために赤い「教皇靴」を脱ぐと、チャウルジュの隣に座ってメッカの方を向き、ともに祈りの言葉を唱えた。教皇がイスラムに敬意を払う様子をみて、一般のイスラム教徒の怒りも収まっていった。
ベネディクトの振る舞いは、イスラム教指導者たちにも好意的に受け止められた。例えばその1年後、イスラム教の聖地メッカの守護者であるサウジアラビアのアブドラ国王は、サウジ国王として初めてバチカンを訪問している。サウジにはフィリピン人出稼ぎ労働者を中心に約100万人のカトリック教徒がいるが、イスラム以外の宗教行為は制限されているため、バチカンとしてはサウジとの関係構築には現実的な意味合いがあった。またベネディクトは2009年にヨルダンとパレスチナ自治区、2012年にはレバノンに招かれている(これが教皇としての最後の外国訪問となった)。
ベネディクトはトルコで、厳戒な警備が取られるなかで、正教会の指導者であるバルトロメオ1世にも会っている。コンスタンチノープル総主教の座所である聖ゲオルギオス大聖堂(the modest Church of Saint George)で、バルトロメオがベネディクトを「愛する兄弟」と迎えると、ベネディクトは詩篇133を引用して「みよ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」と応えた。
二人はエキュメニズムを推進するとともに、神の愛を通じて平和を推進することに合意した。カトリック教会と正教会の双方が聖人とみなすヨハネス・クリュソストモス(John Chrysostom)とナジアンゾスのグレゴリオス(Gregory of Nazianzus)の墓の前で祈りを捧げた。二人の遺骨は1204年の第4回十字軍でコンスタンチノープルが陥落した際、ローマに奪われていたが、ヨハネ・パウロ2世が死去する5カ月前に返還された。
最後にベネディクトとバルトロメオは聖ゲオルギオス大聖堂のバルコニーに姿を現し、共同宣言を発表すると、つないだ手を高らかに上げた。このとき二人は、カトリック教会と正教会の専門家30人からなる教理委員会が、6年ぶりに集まって両教会間の教理上の違いを少なくしたことは「大きな喜びだ」と語っている。
トルコ正教会の規模は決して大きくなく、近年トルコのイスラム化が進んでいることもあって、一段とマイノリティー化している。だがベネディクトは歴史的に東西の架け橋となってきたトルコのキリスト教コミュニティーをサポートすることで、イスラム教徒の反感に対処できることを示した。
その後バルトロメオはローマを何度も訪れ、そのたびに東西教会間の分断を少しずつ修復してきた。2008年6月にはベネディクトとともにサンピエトロ大聖堂でミサを行い、二人でニカイア信条をギリシャ語で唱えた。ただしこのとき、バルトロメオは正教会が認めない、「(聖霊は父)と子から」という文句を省いて論争を未然に防いだ。こうしてベネディクトは、東西教会の協力を妨げてきた重大な教理上の不一致を乗り越えた(あるいは少なくとも棚上げした)。
<ロシア正教との関係修復>
しかし東西教会間の対話をもっとも深めるきっかけとなったのは、やはり、2009年1月にロシア正教のモスクワ総主教にキリル1世が就任したことだろう。キリルはそれまで20年間にわたって、ロシア正教会の渉外局長として、実質的に外相の役割を果たしてきた。バチカンへの対応に当たってきたのもキリルで、ベネディクトがラッツィンガー枢機卿だった時代から二人は協力関係にあった。
バチカンの関係者によると、キリルがヨハネ・パウロ2世とベネディクトに信頼されたのは、その家系のおかげもあるようだ。キリルの祖父は1933年にソビエトに逮捕され迫害されたロシア正教の司祭で、父親も司教、兄は長司祭であると同時に神学校の教授だった。
キリルとベネディクトは、西洋文明の存続は美徳と自由というキリスト教的価値観にかかっているという考えを共有しており、自然と親しくなった。ドイツとソビエトという全体主義の抑圧を経験した二人は、世俗主義の蔓延はモラル崩壊の前兆であり、社会不安や圧制をもたらす恐れがあると考えていた。イスラム過激主義と、過激派のキリスト教徒に対する暴力への懸念も二人は共有していた。
モスクワ総主教となったキリルは、自らのアイディアを実現できる強力な地位を得た。信徒の増加とロシア政府との緊密な協力関係は、ロシア正教会の影響力と重要性を高めた。ロシアでは1987―2009年までの間に正教会の修道院が3カ所から478カ所に、神学校は2カ所から25カ所に、教会は2000カ所から1万3000カ所に増えている。
ロシア正教とカトリック教会の政治的関係は、ベネディクトの時代に入って大きく改善した。ロシアとバチカンは2010年、ボリシェビキ革命(1917年)以来初めて完全な外交関係を結び、互いに大使を派遣した。
ベネディクトのロシアへのアプローチは、数世紀にわたるポーランドとロシアの不和を修復する助けにもなった。2012年夏、カトリック教会のポーランド人司教とロシア正教会の総主教たちがポーランドに集まり、「お互いの偏見」を克服するようにポーランド政府とロシア政府に訴えている。
ロシア正教の総主教が現代のポーランドを訪問するのは初めてだったため、その一部始終がポーランドのテレビで紹介された。これらが実現したのはカトリック教会と正教会間の「雪解け」のおかげもあるが、ウラジーミル・プーチン大統領とベネディクトの親交もプラスに作用した。二人は2007年3月にバチカンで初めて顔を合わせたとき、教皇の母国語であるドイツ語で言葉を交わした。ウィキリークスが公開した米国務省の外交公電によると、ロシア正教徒のプーチンは、「両教会の対話促進のためにやれることは何でもする」と約束した。バチカンはワシントンと違って、ヨーロッパやラテンアメリカと同様に、ロシアも西洋文化の一部とみなしている。
カトリック教会とロシア正教会トップの良好な関係は今後も続くだろう。キリルの後任としてロシア正教会の渉外局長に就任したイラリオン・アルフェエフ(46)府主教は作曲家でもあり、若手の指導者として注目されている。彼はアメリカやヨーロッパでも人気があり、バチカンでも広く知られている。
イラリオンはカトリック教会と正教会が道徳的な問いに対して統一的な回答を示し、西洋の「キリスト教離れ」を食い止めるために協力する重要性を唱えている。例えば2009年に欧州人権裁判所が、欧州人権条約に違反するとして、イタリアの公立学校からすべての十字架を取り外すよう命じる判決を下したとき、カトリック教会、ロシア正教会、そしてギリシャ正教会は協力して、上級審で判決破棄に持ち込んだ。
より最近では、パンクバンド「プッシー・ライオット」のメンバー三人が、モスクワの歴史ある聖堂の祭壇でゲリラライブを行い、刑務所送りになったとき、ロシア政府は国際的な非難を浴びたが、カトリック教会とプロテスタントの複数の教派は(ロシア政府と)正教会を支持する書簡を送っている。これについて欧州カトリック司教協議会は次のように説明している。「実際には神聖な静寂を壊したり、市民生活における信仰や宗教施設に憎悪をかきたてたりといった挑発的な扇動行為であるにもかかわらず、それを芸術の自由や表現の自由と取り違える風潮を(われわれは)拒絶する」
キリルはフランシスコの教皇就任を祝福する書簡で、ベネディクト時代に両教会間で好ましい関係が育まれたことを称えている。そして、迫害されるキリスト教徒を守るとともに、「現代の世俗的な社会で伝統的な道徳観」を促進する必要性を強調した。フランシスコも東方正教会と無縁ではない。彼はアルゼンチンでの枢機卿時代に、東方典礼カトリック教会(東方教会の典礼を用いつつローマ教皇権を認めている教会)の裁治権者の役割を担っていた。
<英国国教会、プロテスタント派との協力>
キリスト教の一致に向けて前例のない試みをしたベネディクト16世は2012年10月、司教会議に特別ゲストを招いた。その中にはロシア正教会のイラリオン渉外局長と、トルコ正教会のバルトロメオ1世がいた。さらに英国国教会のローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教が祈りや宗教活動や知恵の基礎となる瞑想の重要性について演説を行った(英国国教会の精神的指導者が司教会議で演説するのは初めてだった)。その翌日にはバルトロメオとベネディクトが揃って第2バチカン公会議50周年を祝うミサに出席した。
ウィリアムズとベネディクトは、ベネディクトが2010年にイギリスを訪問して、英国国教会からカトリックに改宗したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿を列福するミサに出席して以来良好な関係を築いてきた。この訪英中、ベネディクトはローマ教皇として初めてウェストミンスター寺院に足を踏み入れた。同寺院は16世紀半ばにヘンリー8世がカトリック教会からの離脱を決断するまで、ベネディクト会の修道院として使われていた。しかし基本的にヘンリー8世が問題視したのは、カトリック教会が教皇を頂点としている点のみであり、カトリックの教理自体は問題視していなかった。このためカトリック教会と英国国教会(アメリカでは聖公会)の間に教理上の相違はほとんどなく、和解も難しくなかった。
実際、ベネディクト時代にカトリック教会と英国国教会の関係は改善した。ベネディクトは2011年、イギリスの司教たちの反対を押し切る形で、英国国教会の司教区をカトリックとして完全に受け入れる使徒憲章を承認した。これは、イギリスとアメリカとオーストラリアに「属人的司教区(オルディナリアーティ・ペルソナーリ)」を導入して、英国国教会や聖公会の「典礼上の伝統、霊的伝統、そして聖職者の伝統」を維持しつつ、カトリックへの改宗を希望する聖職者(結婚した司祭を含むが、結婚した司教は含まない)と信徒を受け入れる制度だ。各司教区の裁治権は改宗した聖公会の聖職者が保有し、この裁治権者は教皇の監督下に置かれる。こうした措置は、英国国教会・聖公会信徒から寄せられた改宗希望に応じたもの、というのがバチカンの説明だ。その希望者には50人以上の司教が含まれるという。
この措置は、カトリック教会が英国国教会の信徒を横取りする行為とみなされる恐れがあった。それだけにウィリアムズがベネディクトと友好的な関係を維持し、さらにカトリックの礼拝に参加したのは驚くべき出来事だった。英国国教会の指導者たちは、ベネディクトの行動を「盗み」ではなく、キリスト教という共通のアイデンティティーを維持する手段と受け止めたのだ。
2013年1月にウィリアムズに代わりカンタベリー大主教に就任したジャスティン・ウェルビーは、3月にベネディクトが教皇を退任した際、その「大いなる尊厳、洞察力、勇気」を称えた。フランシスコも英国国教会のリーダーたちに尊敬されている。同教会アルゼンチン教区のグレゴリー・ベナブルズ大司教は、フランシスコは「単なる聖職者というより(正に)キリスト教徒であり、キリストを中心に考える聖霊に満ちた人物」だとしている。「彼は常に謙虚で賢く、並外れた才能の持ち主でありながら普通の人物として振る舞っている」
ベネディクトはプロテスタント諸派との和解にも力を入れた。カトリック教会の腐敗に抗議する形で始まったプロテスタントは、主に四つの点でカトリックと異なる。第1に、プロテスタントは救済とはキリストへの信仰によってのみもたらされるものと考えるが、カトリックは救済とは神の恵みに人間が信仰と善行によって応えるプロセスだと考える。第2に、プロテスタントは教皇を頂点とする聖職者のヒエラルキーを否定している。第3に、プロテスタントは信仰を導くのは聖書のみで足りるとするが、カトリックは聖書以外にも使徒伝承などの聖伝を重視する。第4に、ほとんどのプロテスタントの教派は、聖体拝領(聖餐)をキリストの犠牲を象徴するものと解釈するが、カトリックは聖体そのものと考える。
こうした教理上の違いを考えると、1999年にキリスト教一致推進評議会とルーテル世界連盟が、「義認の教理に関する共同宣言」に調印したのは驚くべきことだった。この共同宣言は約500年にわたる教理論争を乗り越え、共通の未来へと道を開くとともに、過去の相互非難を取り消すものとなった。さらに2006年、世界メソジスト協議会(信徒8000万人)も満場一致でこの共同宣言に調印することを決めた。
キリスト教の一致は、フランシスコの下で一段と進められるだろう。エキュメニカルな雑誌クリスチャニティー・トゥデーは、フランシスコを「すべてのキリスト教徒の教皇」と呼んだが、実際フランシスコは、異なる宗派の指導者と親交を結び、ともに祈り、聖典を学んできたことで知られる。
<フランシスコの時代>
カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの間で共通認識を探る動きが進んできた背景には、ベネディクトの努力だけでなく、世界的なトレンドも関係している。特に先進国で世俗化と物質主義の波によってキリスト教の存続が脅かされるなか、信徒を一致させる力強い中核的理念、すなわち、キリストは神であり救い主であり、隣人を愛することは信仰上の義務であるという信念に比べれば、これまで一致を妨げてきた教理上の違いなど取るに足らないという認識が高まっている。
またキリスト教会や信徒に対する暴力が拡大するなか、各教派は政府や多国間機関に保護を求めてきた。その声は組織が大きいほど大きな影響力となる。その点、カトリック教会は世界180カ国と外交関係があり、ほとんどの国連機関に永久オブザーバーの立場で参加している。
キリスト教徒であることを理由に信徒が捕らわれる事件が、特にイスラム教徒が多数派の国で増えており、こうした幅広い外交ネットワークは、このような問題を解決する大きな手段になる。加えて、アメリカ以外のカトリック教会、正教会、プロテスタントの指導者たちは、「軍事介入を多用し、現地の文化と伝統には最小限の敬意しか払わない、2003年以降のアメリカの外交政策」によって、キリスト教徒の安全と平和的な対話という大義が危険にさらされていると感じている。
中絶や同性婚といった政治問題になると、生命や家族関係、異性間結婚、貧困者の保護を重視する伝統的なキリスト教徒は、所属する教会に関係なく結束してきた。彼らは正式な教理が刷新されるのを待たずに教派を超えた協力を強力に進めている。そこでは、キリスト教の一致が選択ではなく、緊急の要請として存在する。
「キリスト教の一致」を模索する活動は、フランシスコの下で今後も進められていくだろう。そう予想できるのは、新教皇がエキュメニカルな経歴の持ち主だからというだけでなく、社会における物質主義、不寛容、そして抑圧の危険が小さくなる気配がまったくないからだ。キリスト教一致推進評議会のようなメカニズムが既に存在することからみても、この運動が消えゆく運命にあるとは考えにくい。フランシスコは個人的にもキリスト教の一致に力を入れてきた。彼はこれまでの10年間、アルゼンチンのエキュメニカルグループである「聖霊におけるカトリック教会および福音派教会の新たな交わり」を精力的に指導してきた。
教派間の協力拡大が重要であることは、キリスト教のほとんどの教派で意見が一致している。もちろん一部での諍いや対立は今後も起きるだろう。ロシア正教の一部の聖職者は、カトリックとプロテスタントがロシア国内に新たに教会を建てていることをよく思っていないし、ラテンアメリカではカトリックの司教たちがプロテスタント諸派の拡大に警戒感を露わにしている。しかしキリスト教3大グループの指導者たちは、お互いの良好な関係を望んでおり、それを信徒たちの間にも広げようとしている。
ベネディクトの教皇としての最後の行為、すなわち教皇を最後まで務めるのではなく、自発的に退位するという驚くべき決断は、これまでキリスト教一致の最大の障害となってきた「教皇の権威」についてカトリック教会に再考を迫り、教派間の和解に寄与するはずだ。
フランシスコのこれまでの行動は、教皇のあり方を見直していることの表れだろう。教皇に選出された日の夜、サンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を現したフランシスコは、教皇のもっとも控えめな肩書きである「ローマ司教」と名乗った。服装も移動手段も質素なものを利用し、出身地アルゼンチンの聖職者や信徒には「お金がもったいないから自分の就任式には来ないように」と呼びかけた。こうした振る舞いはどれも、皇帝のようなローマ教皇の振る舞いを改める狙いがあることを示している(そして他の教派の指導者たちはこの試みを歓迎している)。
フランシスコが今後もカトリックの教理を守っていくことは間違いない。しかしその一方で、教皇としての働きの中心にキリストと福音を置くことによって、キリスト教の一致も推し進めていくだろう。●
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