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Classic Selection 1951
来るべき対日講和条約について
Japan and the Crisis in Asia
2009年11月号掲載論文
- 講和の見通し
- 冷戦と日本の安全保障
- 日本における共産主義
- 経済復興の布石としての講和
- 講和と日本の精神について
<講和の見通し>
終戦から5年以上の歳月を経た今も、日本は、国際法上はアジア、ヨーロッパ、米州の49カ国と戦争状態にある。日本にはこうした諸国と講和を結ぶ用意があり、またその資格があることは世界各国も認めている。
この点は、ハリー・トルーマン大統領とダグラス・マッカーサー元帥による歴史的な太平洋での(ウェーク島)会談後、大統領も確認している。
連合国最高司令官としてのマッカーサー元帥の指導力と政治手腕、またアメリカの政府および市民の寛大な援助のおかげで、日本は復興と再建に向けて前進を遂げた。
すでに日本は経済的に自由な独立国家として世界の貿易システムに参加できる状態にあり、今後さらに経済自立を目指して成長できるかは、そうした貿易システムに参加できるかどうかに左右される。政治的にも、自らのイニシアティブと責任を持って政府を運営していく機は熟していると思われる。
いかに効率的で賢明な方法で、しかも好意的に実施されたとしても、占領体制が長引けば、日本人の自尊心や自立心を傷つけ、日本国内での民主主義の発展は阻害される。日本は待望久しい講和条約の実現を切に願っている。
1949年5月3日の憲法記念日に、マッカーサー元帥は日本人へのメッセージの中で、対日講和が不当に遅れている理由を次のように説明している。
「ポツダム宣言に盛り込まれた連合国の目的は多くの重要な点をめぐってすでに達成されており、日本市民は勤勉かつ誠実に降伏の条件を履行している。(中略)連合国軍が引き続き日本の国土を占領しているのは、占領開始以降の日本人の行動が間違っていたからでない。むしろ日本が影響を行使したり、制御したりできない外部の出来事や状況によるものである」
このような外部での出来事や状況が何であるかをここで説明する必要はない。それは「冷戦」という一言で説明できる。
対日講和問題が連合国間の問題として浮上したのは、連合国がイタリアとの間で講和条約を締結したすぐ後の1947年3月17日、マッカーサー元帥が対日講和条約の早期締結と連合軍の占領終了を呼びかける声明を発表したときにさかのぼる。
7月11日、アメリカ政府は対日講和予備会議の開催を提案した。この提案では、会議は当時極東委員会に代表を送り出していた11カ国で構成され、参加国全体の3分の2の多数決によって決議される、とされていた。
アメリカの提案を受け入れた政府のほとんどが原則的に賛成を表明した。その夏にキャンベラで開催された英連邦外相会議も公式にアメリカ案への支持を表明した。しかしソ連は、「対日講和条約はアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四大国によって起草されるべきであり、それぞれに拒否権が認められるべきだ」と主張した。
その後数年間にわたるあらゆる外交努力もむなしく、これら手続きに関する見解の相違は埋まらなかった。
世界中で対日講和条約の早期締結を求める議論がわき起こったが、実際には条約文の起草には至らなかった。
問題の大元は東西両陣営を隔てる亀裂にある。民主主義と全体主義的共産主義との間に、社会や国家のあり方についての概念、人類の発展や文明に関する理念をめぐって根本的かつ絶対に妥協できない認識上の違いがあることが、このような手続き上の行き詰まりとして表面化した。
人口8000万の国の運命を左右し、今後の世界の方向にも大きな影響力を持つ対日講和条約について両陣営が異なる意見を持つのは無理もない。
アメリカ政府が日本との講和条約締結を積極的に推進することを決定し、米国務省特別顧問であるジョン・フォスター・ダレスが、ソ連を含む極東委員会の構成員との間で対日講和条約の予備交渉を行っているというニュースをわれわれは歓迎している。
だが、1950年2月にソ連と共産中国との間で「日本、もしくは日本に連帯するあらゆる国」を仮想敵国とする軍事同盟(中ソ友好同盟相互援助条約)が結ばれ、さらに朝鮮半島での冷戦が熱い戦争と化している現状では、東西両陣営の和解は困難だろう。
自由主義陣営が和解や妥協のための政策をとるとは考えられないし、ソ連側の政策が変更されるとも考えにくい。最終的には講和条約は、共産諸国を除外した(西側諸国との)単独講和になるだろう。このことは、日本が先に指摘した49カ国のうち、44カ国という世界の大多数の諸国と講和を結ぶことを意味する。
日本国内にはこれに反対する者もいる。当然のことながら共産主義者はこの見通しに激しく反発している。また一部の政治家や研究者も、単独講和は、日本が目指すべき完璧な平和ではないとみなす、率直ながらも非現実的な立場をとり、この見通しに反対している。
私の個人的見解として、また政府および圧倒的多数の日本人の立場を代弁して述べたいのは、講和条約が締結されないよりは、できるだけ多数の国と講和条約を結ぶことが望ましい、ということだ。
近い将来に起こりえないことに漠然とした希望を抱き、情勢を見守るような余裕は日本にはない。さらに言えば、日本は明らかに自由主義陣営の一員である。この事実が、共産世界にとって都合が良くないとしても、それは仕方がないだろう。
<冷戦と日本の安全保障>
講和条約締結に伴う最大の問題の一つは安全保障上の問題、つまり、連合国の安全保障、および日本の安全保障である。
精神面、物質面の双方から日本を完全に非武装化したことにより、連合国の日本に対する安全保障上の懸念は事実上取り払われている。
戦争によって日本の海軍は壊滅し、軍需産業の大半も破壊された。残されていた軍事的制度のすべても戦後に解体された。日本は(国権の発動としての)戦争を放棄し、(国際紛争を解決する手段としての)あらゆる武力(による威嚇や行使)を否定する新憲法を制定した。しかしながら、日本の侵略によって苦しめられた人々や、ヒトラーの下で凶悪な軍事大国として再興したドイツの例を生々しく記憶している人々は、依然として、日本が再び世界平和に対する脅威となるかもしれないと懸念しているようだ。
ここで指摘したいのは、第一次世界大戦後のドイツと第二次世界大戦後の日本がまったく異なる状況にあることだ。
1918年の終戦当時のドイツはほとんど無傷な状態だったが、1945年8月の日本は空襲を受け、打ちのめされ、廃墟のなかにあった。鉄鉱、石炭、その他の大量の天然資源を有していたドイツと比べ、日本は天然資源に乏しく、軍需品を製造しようとすれば、必要な原材料のすべてを輸入しなければならない。
軍艦や兵器を秘密裏に製造し、近代的な軍隊を密かに訓練して維持していくことなど、もとより不可能だ。したがって、日本が戦争の準備をしようとすれば、たちどころに連合国の知るところとなるし、(仮に軍備路線を進めても)鉄鉱や鋼鉄、石炭、石油といった必需品の供給を止めさえすれば、行く手を阻むことができる。
仮に日本が再軍備を望んだとしても、近隣諸国を攻撃する軍事大国になるとは考えられない。ましてや赤道を越えた遠隔地での戦争を行えるような国にはなり得ない。日本が脅威となることは決してない。
だが一方で、日本が懸念すべき脅威が存在する。それは、ヨーロッパやアジアでの冷戦に伴う醜い現実、特に最近における共産主義軍事勢力の極東地域における台頭などだ。いかに冷戦の脅威が身近にあるかは朝鮮戦争が雄弁に物語っている。
アメリカの政治家や軍事指導者はアリューシャン列島からフィリピンにいたる島嶼部を結ぶ太平洋の不退転防衛戦(ディフェンス・ペリミーター)を守る決意を再度表明している。日本列島はこの島嶼群の中心に位置し、それぞれを結びつける重要な位置にある。
1950年1月12日にアチソン国務長官はナショナル・プレス・クラブで次のように述べている。
「日本が戦争に敗北し非武装化されたことから、アメリカは太平洋地域全体と日本の安全保障のために、日本の軍事防衛の責任を必要な限り担わなければならなくなった。日本の防衛責任を放棄したり、弱めたりするつもりはまったくない」。
もちろん占領軍が日本に駐留する限り、国土の安全は確保される。しかし仮に米軍が撤退すれば、非武装の日本はどうなるのだろうか。日本は永遠にアメリカに保護してもらえるのだろうか、それは果たして望ましいことなのか。
このような問題こそ日本が直面している問題であり、その答えは朝鮮戦争によって明らかとなった。
6月25日、北の共産主義勢力が韓国に侵攻したというニュースはわれわれにとってまさに青天の霹靂であった。しかしながら侵略者を撃退すべく、アメリカのリーダーシップの下に結集した世界の自由主義諸国の積極性、結束力を前にわれわれは胸をなで下ろしている。
侵略された韓国に対して国連軍が迅速に救援にかけつけ、何週間、何カ月にもわたって勇気と決意をもって激しく戦っていることにわれわれは大きな感銘を受けている。世界のいかなる場所であっても、自由と法の支配を守ろうとする国連の強い希望と意志がこの派兵によって余すところなく示された。さらに、有事のなか、防衛能力を持たない日本がひとり放置されることがあり得ないことも、われわれは今回のケースから十分に理解した。
自由主義国家の結束への揺るぎない信頼とともに、日本の自由と独立のためにわれわれは国連を頼みとしていくだろう。
今後講和条約が成立すれば、日本の国連加盟に向けた連合国の支持基盤が作られ、われわれも国連による極東の安全保障枠組みの構築に参加できるようになることを期待している。
<日本における共産主義>
朝鮮半島では戦争という手段に訴えた共産勢力だが、多くの場合、彼らが用いるのは社会的侵入という手法だ。つまり、不平不満分子を煽り、混乱と無秩序を作り出し、武力を用いて正統な政府を転覆させ、傀儡政権を樹立するというやり方だ。日本国内にも共産主義者や既存のすべての秩序に反対する勢力が存在し、これが国内治安上の問題を作り出している。
日本共産党はこれまで長年にわたって押さえつけられ、事実上存在しないも同然だったが、連合国の占領下で認められた新しい政治的自由とともに復活した。
共産党は赤旗を翻し、「インターナショナル」(革命歌)を歌って皇居前広場でデモ行進を行うという劇的な復活劇を演じた。投獄や亡命から社会へと舞い戻った共産党の指導者たちを新聞はあたかも英雄であるかのように扱っている。共産主義の復活は軍事独裁からの開放の一部として祝うべきものとして人々の眼に魅力的に映っている部分がある。
古い政党が解体され、指導者を失い機能不全に陥っていたときに、一方の共産党は積極的な活動を展開した。
共産党は組織力を持ち、労働者を取り込むとともに、わかりやすい党則と資金を持っている。共産党は、教育機関や政府省庁内に共産党分子を配置し、労働運動の指導層を取り込み、農村や漁村にも分子を送り込んだ。その後、全国規模の党組織網を整えるとともに、「赤旗」などの出版物を発行した。現在共産党は非登録の党員や同調者を別にしても、7万7000人の正式な党員を有している。国会においても共産党は24の衆議院議席、7つの参議院議席を獲得している。
しかし、先に述べたとおり、占領軍が駐留している限り、日本は安全である。手に負えない無秩序な状態になればGHQ(連合国軍総司令部)が介入し、騒乱分子を取り締まるだろう。
事実、1947年4月に神戸で在日朝鮮人による手に負えぬ暴動が起きたときにも、当時のロバート・アイケルバーガー第8軍司令官自ら現場で指揮をとって、これを鎮圧した。この時、米軍が行動を起こさなければ、日本中の交通網が麻痺していただろう。1951年初め、コミンフォルム(共産党情報局)は連合軍の占領政策に反対する日本共産党の宣伝活動が手ぬるいと批判し、共産党はまもなく誤りを認める声明文を出した。それ以降、共産党はアメリカとその占領政策を中傷する共産主義の古典的な手法を取りだした。しかし暴動の誘発をもくろむ中傷や破壊主義的な活動が激化したため、占領当局は、党中央執行委員会のメンバーや「赤旗」の編集員のパージを命じ、「赤旗」の発行も以降停止されている。連合国軍司令部の毅然たる態度のおかげで、日本における共産主義は効果的に鎮圧されている。
さらに国内外であらわになりつつある共産主義の残忍さや荒々しさゆえに、潜在的同調者も共産主義から距離を置くようになり、日本共産党は支持基盤を失いつつある。
人々の反共的な立場は選挙結果に表れている。1948年1月の衆議院総選挙で共産党は298万4000票以上の得票を記録したが、1950年6月の参議院選においては地方区では163万7000票、全国区では133万3000票の支持を得るにとどまった。
もちろん日本共産党が壊滅したわけではない。パージされた幹部の中には地下に潜伏し、アジトから党の活動を指令している者もいる。朝鮮戦争が始まるや、共産党は国連軍による反撃を「侵略」と非難し、日本の港湾や造船所の業務を混乱させて国連軍の活動を妨害しようと抵抗を試みた。教育機関からの共産党員追放に反対する学生ストライキも扇動した。
共産党に対する嫌悪と軽蔑を招き入れたこれらの活動には、海外の共産党指導者への忠誠心を示し、コミンフォルムに再び「批判」されないようにしようという意図が明らかに見て取れる。
日本政府は公職に就くのにふさわしくない共産党員の追放を進める計画であり、炭鉱や工場ではすでに共産主義運動の扇動家や首謀者は解雇されている。このような方策が現在順調に進んでいるという事実は、共産主義の後退を何よりも雄弁に物語っている。他方、日本国内の治安上の脅威に備えるため、GHQは7月初め、7万5000人からなる警察予備隊の創設を許可し、すでに人員も採用され、現在、装備・訓練が行われている。
日本に関する限り、共産主義の脅威は後退しつつある。
<経済復興の布石としての講和>
太平洋戦争の結果、日本は海外の総資産の44%、商船の80%、そして国内の産業施設の大半を失った。これは日本が民間経済部門を含む国家資産の36%を失ったことを意味する。敗戦に伴うこうした惨状に屈せず、これまで驚異的な復興を実現できたのは、ひとえに占領政策とアメリカの寛大な援助のおかげである。
1948年1月、マッカーサー司令部は対日講和条約の早期締結は難しいと考え、日本の復興と自立の促進を目的として、政治的、経済的な規制や統制の多くを段階的に緩和あるいは撤廃し、可能な限り日本を事実上の平時体制へと移行させる政策に乗り出した。日本の産業が復興し、海外貿易が現水準まで改善したのは、こうしたアメリカの政策が、財政的支援と技術援助の包括的プログラムとともに実施された結果である。
事実上の平時という環境の下で、民間貿易のチャンネルが拡大され、日本のビジネスマンの海外渡航も認められるようになった。
1948年、アメリカは日本の海外貿易を促進するための基金を創設し、また1949年4月には円の為替レートが設定され、同年12月には、経済安定9原則が発表された。
1950年、日本はGHQの仲介により、アメリカの5つの都市に在外事務所を開設した。今後さらに、パリ、ブリュッセル、ストックホルム、ニューデリー、ボンベイ(ムンバイ)、カルカッタ(コルカタ)、サンパウロ、リオデジャネイロなどの都市に事務所を開設することが予定されている。
1947年にはたった50人の外国人が来日したに過ぎなかったが、1949年には日本を訪れた外国人ビジネスマン、観光客、旅行者などの数は1万5000人に増加した。また、留学や文化交流、商業目的で海外渡航する日本人も増加している。
GHQの「経済統計」には、連合軍占領下の過去5年における日本の発展が明確に現れている。
満州事変勃発直後の1932年から1936年の時期と比較すると、1946年の日本の工業生産はかつての33%にすぎなかったが、1950年7月までにはかつての94%へと回復していた。生産指数も繊維部門で1946年の10・2から1949年には41・6に、農業部門で44から82・1に、漁業部門で38から約80にまでそれぞれ増加している。海外貿易部門では、1938年当時、それぞれ7・58億ドル、7・5億ドルだった日本の輸出入額は、1946年には1・03億ドル、3・05億ドルへと落ち込んでいたが、1949年には輸出額が5・1億ドル、輸入額が9・02億ドルに達するまでに回復した。
喜ばしい復興ぶりが統計上現れているとはいえ、現実には、日本の切実な必要性さえも満たせない状況にある。
日本は年間150万人のペースで増加している8000万の人口のために食糧を確保しなければならないが、国内生産による食糧供給は国内需要の81%を満たしているに過ぎず、大量の食糧輸入に頼らざるを得ない状況にある。
ここで引用した海外貿易の数値で注意しなければいけないのは、1949年の日本の総貿易額が名目上、1938年の数値に近いように見えるものの、実質的には戦前の半分以下にすぎないということだ。対ドル購買力平価が約50%低下していることがその理由だ。
輸出入の大幅な格差もある。1949年末までの年間輸入超過額(貿易赤字)の累積は13・66億ドルに達しており、これらはすべてアメリカの援助基金によってまかなわれてきた。日本がこれ以上アメリカの納税者に負担をかけないようにするには、対外貿易を倍増しなければならない。
長期的に日本経済の安定と自給を実現するには輸出額を3、4倍へと増やす必要がある。現在、そして今後当面は、輸出を増やしていくことこそ、外貨を獲得して日本の国際収支を均衡させるための唯一の方法であり、それには輸出産業の拡大が必要になる。つまり、工場の建設、時代遅れで疲弊した生産設備の修復と刷新、海外資本や欧米の先端技術の導入、水力発電の開発などだ。
これらを日本は必要としている。このような事情が対日講和条約を起草する諸国によって考慮されることを期待する。また連合国による占領下で日本が達成してきた経済復興の道を今後も歩み続けることが認められるように希望する。これまでに達成したことを水泡に帰し、アメリカのこれまで、そして将来の援助を無駄にするような規定が講和条約から外されることを切望する。
単独講和は日本と共産中国との間の通商を永遠に断ち切ることになる、という懸念も一部にはある。しかし、赤であれ、白であれ、中国は日本の隣国である。長期的に見れば地理的、経済的必要性がイデオロギー上の違いや人為的な貿易障壁を克服していくだろう。
しかしながら、対中貿易の重要性を誇張すべきではないだろう。1932年から1936年の間、日本の対外貿易に占める対中貿易のシェアは輸出で22%、輸入で13%を超えることはなかった(旧満州地域がそれぞれ4%と6%、関東軍による租借領域が12%と2%、中国本土が6%と5%)。しかも、いまでは日本は中国における「特別な勢力圏」は持っていない。中国自身も長年に及んだ戦争で生産能力や運輸能力の大半を失っている。中国との通商に期待しすぎるのは間違いだろう。
一方、中国以外の東アジア地域の先行きは明るい。戦前においてもインド、セイロン(スリランカ)、インドネシア、フィリピンとの貿易は日本の対外貿易の20%を占めていた。
戦後、二国間協定に基づくこれらの諸国ならびにパキスタン、ビルマ(ミャンマー)、タイとの貿易額は急速に増加し、1949年には輸出額2・3億ドル、輸入額1・5億ドルに達し、日本の総輸出額の46%、総輸入額の17%を占めるまでに至った。
これら東アジア各国は経済の安定化促進と生活水準向上を目的とした大規模な復興プログラムに着手しようとしている。
1948年12月にオーストラリアのラップストーンで開催された国連経済社会理事会のアジア極東経済委員会に提出された報告書によると、これらの国々の復興計画実施に必要な資金総額は136億ドルに達するといわれる。さらに、1950年10月にシンガポールで開催された同委員会の第5回会合で採択された決議は、日本と東アジア諸国間の貿易は相互補完的で地域全体にとって有益であるとして、通商関係の促進に向けて調査を行うことを勧告している。
以上の事実から、日本は将来、東アジア諸国の復興のために適切に産業力を用い、貢献することが求められると考えて差し支えないだろう。報道されているように米英が東アジア諸国の政治・経済安定化の促進に向けて援助を拡大させれば、東アジアの購買力が日本の財へと向かう可能性も高まる。
次に韓国はどうだろうか。国連の救済復興計画を実施するには、衣服、その他あらゆる日用品に加え、大量の建材や車両、機械類が必要となるが、日本はまさにそれらを供給できる立場にある。
しかしながら、日本が東アジアにおける真の産業大国となり、その発展と繁栄に大きく貢献するには講和条約の締結が必要である。
日本が国際通商領域で公正で平等な扱いを受け、移動や居住の権利、そして貿易や輸送の完全な自由を世界中で保証されることが必要だ。講和条約が締結され、日本が自由で独立した国家として国際社会への復帰が認められてはじめて、このような通商・航海上の条件を手にできる。
<講和と日本の精神について>
最後に講和条約がこの国の精神面においても必要であることを述べたい。
アメリカの政府と市民の寛大さは、言葉では言い尽くせないほどの恩恵を日本に与えてくれた。国家復興という困難な試みをめぐって、連合国(アメリカ)が日本を指導し、援助してくれたことにわれわれは感謝している。さらに、これまで日本が安定と治安を維持できたのも、おもに連合国軍(米軍)のプレゼンスのおかげである。
しかし、軍事占領によって独創性や進取の気性、責任感、自信や独立精神、自尊心や愛国心の育成が阻まれることは否定できない。
日本が自由で独立した国際社会の一員として完全な主権を取り戻すことなくして、これらの精神面での進歩はありえない。軍事的占領が精神面で与えるマイナス効果はさておき、問題を別の角度から見つめ、「長期にわたる占領が双方にとってよくない」と考えるマッカーサー元帥の言葉をここで引用したい。
マッカーサー元帥は1947年2月10日に米陸軍省にあてた書簡のなかで、できるだけ早期に和平を実現し、日本を平常へと復帰させる決意を述べ、現在の軍事占領からシビリアン・コントロールへの移行を求めて次のように提言している。
「ある一定の期間であれば、軍事的占領は目標達成の役に立つが、その期間を過ぎれば急速に悪影響が現れ始める。これは歴史の教訓である。占領されている側の民衆は、占領が長期化すれば、個人の自由が剥奪されていることへの反発を必然的に強めるようになる。また、圧倒的な権力を与えられている占領軍は、自らが支配者であるという幻想を抱きがちとなる」
日本は講和条約を待ち望んでいるが、講和条件がどのようなものになるかを予見することはできない。この条約は日本が歴史上はじめて敗戦国として締結する条約であり、日本にとって厳しいものになるだろう。
しかし、過去5年間、(ポツダム宣言受諾に伴う)降伏合意の義務を果たすことによって示したように、日本は、講和条件がいかなるものになるとしても、それを、誠意をもって履行し、過去の過ちを清算していく所存である。
他方、講和条約が日本の将来に希望を与え、国家の再興への情熱をかき立てるようなものになること、そして日本が平和で勤勉な繁栄する国家に成長し、洗練された自由な国、極東における民主主義の防衛拠点となるように後押しするような内容になることを願っている。
また、講和条約締結によって、国連への加盟が実現することを期待する。日本は国連へ加盟し、日本や太平洋地域の安全保障のために、国連の下であらゆる国際協力に伴う責任を果たし、必要な場合には犠牲を払う所存である。●
終戦から5年以上の歳月を経た今も、日本は、国際法上はアジア、ヨーロッパ、米州の49カ国と戦争状態にある。日本にはこうした諸国と講和を結ぶ用意があり、またその資格があることは世界各国も認めている。
この点は、ハリー・トルーマン大統領とダグラス・マッカーサー元帥による歴史的な太平洋での(ウェーク島)会談後、大統領も確認している。
連合国最高司令官としてのマッカーサー元帥の指導力と政治手腕、またアメリカの政府および市民の寛大な援助のおかげで、日本は復興と再建に向けて前進を遂げた。
すでに日本は経済的に自由な独立国家として世界の貿易システムに参加できる状態にあり、今後さらに経済自立を目指して成長できるかは、そうした貿易システムに参加できるかどうかに左右される。政治的にも、自らのイニシアティブと責任を持って政府を運営していく機は熟していると思われる。
いかに効率的で賢明な方法で、しかも好意的に実施されたとしても、占領体制が長引けば、日本人の自尊心や自立心を傷つけ、日本国内での民主主義の発展は阻害される。日本は待望久しい講和条約の実現を切に願っている。
1949年5月3日の憲法記念日に、マッカーサー元帥は日本人へのメッセージの中で、対日講和が不当に遅れている理由を次のように説明している。
「ポツダム宣言に盛り込まれた連合国の目的は多くの重要な点をめぐってすでに達成されており、日本市民は勤勉かつ誠実に降伏の条件を履行している。(中略)連合国軍が引き続き日本の国土を占領しているのは、占領開始以降の日本人の行動が間違っていたからでない。むしろ日本が影響を行使したり、制御したりできない外部の出来事や状況によるものである」
このような外部での出来事や状況が何であるかをここで説明する必要はない。それは「冷戦」という一言で説明できる。
対日講和問題が連合国間の問題として浮上したのは、連合国がイタリアとの間で講和条約を締結したすぐ後の1947年3月17日、マッカーサー元帥が対日講和条約の早期締結と連合軍の占領終了を呼びかける声明を発表したときにさかのぼる。
7月11日、アメリカ政府は対日講和予備会議の開催を提案した。この提案では、会議は当時極東委員会に代表を送り出していた11カ国で構成され、参加国全体の3分の2の多数決によって決議される、とされていた。
アメリカの提案を受け入れた政府のほとんどが原則的に賛成を表明した。その夏にキャンベラで開催された英連邦外相会議も公式にアメリカ案への支持を表明した。しかしソ連は、「対日講和条約はアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四大国によって起草されるべきであり、それぞれに拒否権が認められるべきだ」と主張した。
その後数年間にわたるあらゆる外交努力もむなしく、これら手続きに関する見解の相違は埋まらなかった。
世界中で対日講和条約の早期締結を求める議論がわき起こったが、実際には条約文の起草には至らなかった。
問題の大元は東西両陣営を隔てる亀裂にある。民主主義と全体主義的共産主義との間に、社会や国家のあり方についての概念、人類の発展や文明に関する理念をめぐって根本的かつ絶対に妥協できない認識上の違いがあることが、このような手続き上の行き詰まりとして表面化した。
人口8000万の国の運命を左右し、今後の世界の方向にも大きな影響力を持つ対日講和条約について両陣営が異なる意見を持つのは無理もない。
アメリカ政府が日本との講和条約締結を積極的に推進することを決定し、米国務省特別顧問であるジョン・フォスター・ダレスが、ソ連を含む極東委員会の構成員との間で対日講和条約の予備交渉を行っているというニュースをわれわれは歓迎している。
だが、1950年2月にソ連と共産中国との間で「日本、もしくは日本に連帯するあらゆる国」を仮想敵国とする軍事同盟(中ソ友好同盟相互援助条約)が結ばれ、さらに朝鮮半島での冷戦が熱い戦争と化している現状では、東西両陣営の和解は困難だろう。
自由主義陣営が和解や妥協のための政策をとるとは考えられないし、ソ連側の政策が変更されるとも考えにくい。最終的には講和条約は、共産諸国を除外した(西側諸国との)単独講和になるだろう。このことは、日本が先に指摘した49カ国のうち、44カ国という世界の大多数の諸国と講和を結ぶことを意味する。
日本国内にはこれに反対する者もいる。当然のことながら共産主義者はこの見通しに激しく反発している。また一部の政治家や研究者も、単独講和は、日本が目指すべき完璧な平和ではないとみなす、率直ながらも非現実的な立場をとり、この見通しに反対している。
私の個人的見解として、また政府および圧倒的多数の日本人の立場を代弁して述べたいのは、講和条約が締結されないよりは、できるだけ多数の国と講和条約を結ぶことが望ましい、ということだ。
近い将来に起こりえないことに漠然とした希望を抱き、情勢を見守るような余裕は日本にはない。さらに言えば、日本は明らかに自由主義陣営の一員である。この事実が、共産世界にとって都合が良くないとしても、それは仕方がないだろう。
<冷戦と日本の安全保障>
講和条約締結に伴う最大の問題の一つは安全保障上の問題、つまり、連合国の安全保障、および日本の安全保障である。
精神面、物質面の双方から日本を完全に非武装化したことにより、連合国の日本に対する安全保障上の懸念は事実上取り払われている。
戦争によって日本の海軍は壊滅し、軍需産業の大半も破壊された。残されていた軍事的制度のすべても戦後に解体された。日本は(国権の発動としての)戦争を放棄し、(国際紛争を解決する手段としての)あらゆる武力(による威嚇や行使)を否定する新憲法を制定した。しかしながら、日本の侵略によって苦しめられた人々や、ヒトラーの下で凶悪な軍事大国として再興したドイツの例を生々しく記憶している人々は、依然として、日本が再び世界平和に対する脅威となるかもしれないと懸念しているようだ。
ここで指摘したいのは、第一次世界大戦後のドイツと第二次世界大戦後の日本がまったく異なる状況にあることだ。
1918年の終戦当時のドイツはほとんど無傷な状態だったが、1945年8月の日本は空襲を受け、打ちのめされ、廃墟のなかにあった。鉄鉱、石炭、その他の大量の天然資源を有していたドイツと比べ、日本は天然資源に乏しく、軍需品を製造しようとすれば、必要な原材料のすべてを輸入しなければならない。
軍艦や兵器を秘密裏に製造し、近代的な軍隊を密かに訓練して維持していくことなど、もとより不可能だ。したがって、日本が戦争の準備をしようとすれば、たちどころに連合国の知るところとなるし、(仮に軍備路線を進めても)鉄鉱や鋼鉄、石炭、石油といった必需品の供給を止めさえすれば、行く手を阻むことができる。
仮に日本が再軍備を望んだとしても、近隣諸国を攻撃する軍事大国になるとは考えられない。ましてや赤道を越えた遠隔地での戦争を行えるような国にはなり得ない。日本が脅威となることは決してない。
だが一方で、日本が懸念すべき脅威が存在する。それは、ヨーロッパやアジアでの冷戦に伴う醜い現実、特に最近における共産主義軍事勢力の極東地域における台頭などだ。いかに冷戦の脅威が身近にあるかは朝鮮戦争が雄弁に物語っている。
アメリカの政治家や軍事指導者はアリューシャン列島からフィリピンにいたる島嶼部を結ぶ太平洋の不退転防衛戦(ディフェンス・ペリミーター)を守る決意を再度表明している。日本列島はこの島嶼群の中心に位置し、それぞれを結びつける重要な位置にある。
1950年1月12日にアチソン国務長官はナショナル・プレス・クラブで次のように述べている。
「日本が戦争に敗北し非武装化されたことから、アメリカは太平洋地域全体と日本の安全保障のために、日本の軍事防衛の責任を必要な限り担わなければならなくなった。日本の防衛責任を放棄したり、弱めたりするつもりはまったくない」。
もちろん占領軍が日本に駐留する限り、国土の安全は確保される。しかし仮に米軍が撤退すれば、非武装の日本はどうなるのだろうか。日本は永遠にアメリカに保護してもらえるのだろうか、それは果たして望ましいことなのか。
このような問題こそ日本が直面している問題であり、その答えは朝鮮戦争によって明らかとなった。
6月25日、北の共産主義勢力が韓国に侵攻したというニュースはわれわれにとってまさに青天の霹靂であった。しかしながら侵略者を撃退すべく、アメリカのリーダーシップの下に結集した世界の自由主義諸国の積極性、結束力を前にわれわれは胸をなで下ろしている。
侵略された韓国に対して国連軍が迅速に救援にかけつけ、何週間、何カ月にもわたって勇気と決意をもって激しく戦っていることにわれわれは大きな感銘を受けている。世界のいかなる場所であっても、自由と法の支配を守ろうとする国連の強い希望と意志がこの派兵によって余すところなく示された。さらに、有事のなか、防衛能力を持たない日本がひとり放置されることがあり得ないことも、われわれは今回のケースから十分に理解した。
自由主義国家の結束への揺るぎない信頼とともに、日本の自由と独立のためにわれわれは国連を頼みとしていくだろう。
今後講和条約が成立すれば、日本の国連加盟に向けた連合国の支持基盤が作られ、われわれも国連による極東の安全保障枠組みの構築に参加できるようになることを期待している。
<日本における共産主義>
朝鮮半島では戦争という手段に訴えた共産勢力だが、多くの場合、彼らが用いるのは社会的侵入という手法だ。つまり、不平不満分子を煽り、混乱と無秩序を作り出し、武力を用いて正統な政府を転覆させ、傀儡政権を樹立するというやり方だ。日本国内にも共産主義者や既存のすべての秩序に反対する勢力が存在し、これが国内治安上の問題を作り出している。
日本共産党はこれまで長年にわたって押さえつけられ、事実上存在しないも同然だったが、連合国の占領下で認められた新しい政治的自由とともに復活した。
共産党は赤旗を翻し、「インターナショナル」(革命歌)を歌って皇居前広場でデモ行進を行うという劇的な復活劇を演じた。投獄や亡命から社会へと舞い戻った共産党の指導者たちを新聞はあたかも英雄であるかのように扱っている。共産主義の復活は軍事独裁からの開放の一部として祝うべきものとして人々の眼に魅力的に映っている部分がある。
古い政党が解体され、指導者を失い機能不全に陥っていたときに、一方の共産党は積極的な活動を展開した。
共産党は組織力を持ち、労働者を取り込むとともに、わかりやすい党則と資金を持っている。共産党は、教育機関や政府省庁内に共産党分子を配置し、労働運動の指導層を取り込み、農村や漁村にも分子を送り込んだ。その後、全国規模の党組織網を整えるとともに、「赤旗」などの出版物を発行した。現在共産党は非登録の党員や同調者を別にしても、7万7000人の正式な党員を有している。国会においても共産党は24の衆議院議席、7つの参議院議席を獲得している。
しかし、先に述べたとおり、占領軍が駐留している限り、日本は安全である。手に負えない無秩序な状態になればGHQ(連合国軍総司令部)が介入し、騒乱分子を取り締まるだろう。
事実、1947年4月に神戸で在日朝鮮人による手に負えぬ暴動が起きたときにも、当時のロバート・アイケルバーガー第8軍司令官自ら現場で指揮をとって、これを鎮圧した。この時、米軍が行動を起こさなければ、日本中の交通網が麻痺していただろう。1951年初め、コミンフォルム(共産党情報局)は連合軍の占領政策に反対する日本共産党の宣伝活動が手ぬるいと批判し、共産党はまもなく誤りを認める声明文を出した。それ以降、共産党はアメリカとその占領政策を中傷する共産主義の古典的な手法を取りだした。しかし暴動の誘発をもくろむ中傷や破壊主義的な活動が激化したため、占領当局は、党中央執行委員会のメンバーや「赤旗」の編集員のパージを命じ、「赤旗」の発行も以降停止されている。連合国軍司令部の毅然たる態度のおかげで、日本における共産主義は効果的に鎮圧されている。
さらに国内外であらわになりつつある共産主義の残忍さや荒々しさゆえに、潜在的同調者も共産主義から距離を置くようになり、日本共産党は支持基盤を失いつつある。
人々の反共的な立場は選挙結果に表れている。1948年1月の衆議院総選挙で共産党は298万4000票以上の得票を記録したが、1950年6月の参議院選においては地方区では163万7000票、全国区では133万3000票の支持を得るにとどまった。
もちろん日本共産党が壊滅したわけではない。パージされた幹部の中には地下に潜伏し、アジトから党の活動を指令している者もいる。朝鮮戦争が始まるや、共産党は国連軍による反撃を「侵略」と非難し、日本の港湾や造船所の業務を混乱させて国連軍の活動を妨害しようと抵抗を試みた。教育機関からの共産党員追放に反対する学生ストライキも扇動した。
共産党に対する嫌悪と軽蔑を招き入れたこれらの活動には、海外の共産党指導者への忠誠心を示し、コミンフォルムに再び「批判」されないようにしようという意図が明らかに見て取れる。
日本政府は公職に就くのにふさわしくない共産党員の追放を進める計画であり、炭鉱や工場ではすでに共産主義運動の扇動家や首謀者は解雇されている。このような方策が現在順調に進んでいるという事実は、共産主義の後退を何よりも雄弁に物語っている。他方、日本国内の治安上の脅威に備えるため、GHQは7月初め、7万5000人からなる警察予備隊の創設を許可し、すでに人員も採用され、現在、装備・訓練が行われている。
日本に関する限り、共産主義の脅威は後退しつつある。
<経済復興の布石としての講和>
太平洋戦争の結果、日本は海外の総資産の44%、商船の80%、そして国内の産業施設の大半を失った。これは日本が民間経済部門を含む国家資産の36%を失ったことを意味する。敗戦に伴うこうした惨状に屈せず、これまで驚異的な復興を実現できたのは、ひとえに占領政策とアメリカの寛大な援助のおかげである。
1948年1月、マッカーサー司令部は対日講和条約の早期締結は難しいと考え、日本の復興と自立の促進を目的として、政治的、経済的な規制や統制の多くを段階的に緩和あるいは撤廃し、可能な限り日本を事実上の平時体制へと移行させる政策に乗り出した。日本の産業が復興し、海外貿易が現水準まで改善したのは、こうしたアメリカの政策が、財政的支援と技術援助の包括的プログラムとともに実施された結果である。
事実上の平時という環境の下で、民間貿易のチャンネルが拡大され、日本のビジネスマンの海外渡航も認められるようになった。
1948年、アメリカは日本の海外貿易を促進するための基金を創設し、また1949年4月には円の為替レートが設定され、同年12月には、経済安定9原則が発表された。
1950年、日本はGHQの仲介により、アメリカの5つの都市に在外事務所を開設した。今後さらに、パリ、ブリュッセル、ストックホルム、ニューデリー、ボンベイ(ムンバイ)、カルカッタ(コルカタ)、サンパウロ、リオデジャネイロなどの都市に事務所を開設することが予定されている。
1947年にはたった50人の外国人が来日したに過ぎなかったが、1949年には日本を訪れた外国人ビジネスマン、観光客、旅行者などの数は1万5000人に増加した。また、留学や文化交流、商業目的で海外渡航する日本人も増加している。
GHQの「経済統計」には、連合軍占領下の過去5年における日本の発展が明確に現れている。
満州事変勃発直後の1932年から1936年の時期と比較すると、1946年の日本の工業生産はかつての33%にすぎなかったが、1950年7月までにはかつての94%へと回復していた。生産指数も繊維部門で1946年の10・2から1949年には41・6に、農業部門で44から82・1に、漁業部門で38から約80にまでそれぞれ増加している。海外貿易部門では、1938年当時、それぞれ7・58億ドル、7・5億ドルだった日本の輸出入額は、1946年には1・03億ドル、3・05億ドルへと落ち込んでいたが、1949年には輸出額が5・1億ドル、輸入額が9・02億ドルに達するまでに回復した。
喜ばしい復興ぶりが統計上現れているとはいえ、現実には、日本の切実な必要性さえも満たせない状況にある。
日本は年間150万人のペースで増加している8000万の人口のために食糧を確保しなければならないが、国内生産による食糧供給は国内需要の81%を満たしているに過ぎず、大量の食糧輸入に頼らざるを得ない状況にある。
ここで引用した海外貿易の数値で注意しなければいけないのは、1949年の日本の総貿易額が名目上、1938年の数値に近いように見えるものの、実質的には戦前の半分以下にすぎないということだ。対ドル購買力平価が約50%低下していることがその理由だ。
輸出入の大幅な格差もある。1949年末までの年間輸入超過額(貿易赤字)の累積は13・66億ドルに達しており、これらはすべてアメリカの援助基金によってまかなわれてきた。日本がこれ以上アメリカの納税者に負担をかけないようにするには、対外貿易を倍増しなければならない。
長期的に日本経済の安定と自給を実現するには輸出額を3、4倍へと増やす必要がある。現在、そして今後当面は、輸出を増やしていくことこそ、外貨を獲得して日本の国際収支を均衡させるための唯一の方法であり、それには輸出産業の拡大が必要になる。つまり、工場の建設、時代遅れで疲弊した生産設備の修復と刷新、海外資本や欧米の先端技術の導入、水力発電の開発などだ。
これらを日本は必要としている。このような事情が対日講和条約を起草する諸国によって考慮されることを期待する。また連合国による占領下で日本が達成してきた経済復興の道を今後も歩み続けることが認められるように希望する。これまでに達成したことを水泡に帰し、アメリカのこれまで、そして将来の援助を無駄にするような規定が講和条約から外されることを切望する。
単独講和は日本と共産中国との間の通商を永遠に断ち切ることになる、という懸念も一部にはある。しかし、赤であれ、白であれ、中国は日本の隣国である。長期的に見れば地理的、経済的必要性がイデオロギー上の違いや人為的な貿易障壁を克服していくだろう。
しかしながら、対中貿易の重要性を誇張すべきではないだろう。1932年から1936年の間、日本の対外貿易に占める対中貿易のシェアは輸出で22%、輸入で13%を超えることはなかった(旧満州地域がそれぞれ4%と6%、関東軍による租借領域が12%と2%、中国本土が6%と5%)。しかも、いまでは日本は中国における「特別な勢力圏」は持っていない。中国自身も長年に及んだ戦争で生産能力や運輸能力の大半を失っている。中国との通商に期待しすぎるのは間違いだろう。
一方、中国以外の東アジア地域の先行きは明るい。戦前においてもインド、セイロン(スリランカ)、インドネシア、フィリピンとの貿易は日本の対外貿易の20%を占めていた。
戦後、二国間協定に基づくこれらの諸国ならびにパキスタン、ビルマ(ミャンマー)、タイとの貿易額は急速に増加し、1949年には輸出額2・3億ドル、輸入額1・5億ドルに達し、日本の総輸出額の46%、総輸入額の17%を占めるまでに至った。
これら東アジア各国は経済の安定化促進と生活水準向上を目的とした大規模な復興プログラムに着手しようとしている。
1948年12月にオーストラリアのラップストーンで開催された国連経済社会理事会のアジア極東経済委員会に提出された報告書によると、これらの国々の復興計画実施に必要な資金総額は136億ドルに達するといわれる。さらに、1950年10月にシンガポールで開催された同委員会の第5回会合で採択された決議は、日本と東アジア諸国間の貿易は相互補完的で地域全体にとって有益であるとして、通商関係の促進に向けて調査を行うことを勧告している。
以上の事実から、日本は将来、東アジア諸国の復興のために適切に産業力を用い、貢献することが求められると考えて差し支えないだろう。報道されているように米英が東アジア諸国の政治・経済安定化の促進に向けて援助を拡大させれば、東アジアの購買力が日本の財へと向かう可能性も高まる。
次に韓国はどうだろうか。国連の救済復興計画を実施するには、衣服、その他あらゆる日用品に加え、大量の建材や車両、機械類が必要となるが、日本はまさにそれらを供給できる立場にある。
しかしながら、日本が東アジアにおける真の産業大国となり、その発展と繁栄に大きく貢献するには講和条約の締結が必要である。
日本が国際通商領域で公正で平等な扱いを受け、移動や居住の権利、そして貿易や輸送の完全な自由を世界中で保証されることが必要だ。講和条約が締結され、日本が自由で独立した国家として国際社会への復帰が認められてはじめて、このような通商・航海上の条件を手にできる。
<講和と日本の精神について>
最後に講和条約がこの国の精神面においても必要であることを述べたい。
アメリカの政府と市民の寛大さは、言葉では言い尽くせないほどの恩恵を日本に与えてくれた。国家復興という困難な試みをめぐって、連合国(アメリカ)が日本を指導し、援助してくれたことにわれわれは感謝している。さらに、これまで日本が安定と治安を維持できたのも、おもに連合国軍(米軍)のプレゼンスのおかげである。
しかし、軍事占領によって独創性や進取の気性、責任感、自信や独立精神、自尊心や愛国心の育成が阻まれることは否定できない。
日本が自由で独立した国際社会の一員として完全な主権を取り戻すことなくして、これらの精神面での進歩はありえない。軍事的占領が精神面で与えるマイナス効果はさておき、問題を別の角度から見つめ、「長期にわたる占領が双方にとってよくない」と考えるマッカーサー元帥の言葉をここで引用したい。
マッカーサー元帥は1947年2月10日に米陸軍省にあてた書簡のなかで、できるだけ早期に和平を実現し、日本を平常へと復帰させる決意を述べ、現在の軍事占領からシビリアン・コントロールへの移行を求めて次のように提言している。
「ある一定の期間であれば、軍事的占領は目標達成の役に立つが、その期間を過ぎれば急速に悪影響が現れ始める。これは歴史の教訓である。占領されている側の民衆は、占領が長期化すれば、個人の自由が剥奪されていることへの反発を必然的に強めるようになる。また、圧倒的な権力を与えられている占領軍は、自らが支配者であるという幻想を抱きがちとなる」
日本は講和条約を待ち望んでいるが、講和条件がどのようなものになるかを予見することはできない。この条約は日本が歴史上はじめて敗戦国として締結する条約であり、日本にとって厳しいものになるだろう。
しかし、過去5年間、(ポツダム宣言受諾に伴う)降伏合意の義務を果たすことによって示したように、日本は、講和条件がいかなるものになるとしても、それを、誠意をもって履行し、過去の過ちを清算していく所存である。
他方、講和条約が日本の将来に希望を与え、国家の再興への情熱をかき立てるようなものになること、そして日本が平和で勤勉な繁栄する国家に成長し、洗練された自由な国、極東における民主主義の防衛拠点となるように後押しするような内容になることを願っている。
また、講和条約締結によって、国連への加盟が実現することを期待する。日本は国連へ加盟し、日本や太平洋地域の安全保障のために、国連の下であらゆる国際協力に伴う責任を果たし、必要な場合には犠牲を払う所存である。●
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