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原爆投下は何を問いかける?
The Atomic Bombings Reconsidered
1995年2月号掲載論文
原爆が戦争終結の時期を早めたという議論の根拠はとぼしく、「たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない」。加えて、米国の指導者のなかで、一九四五年の春から夏の段階において、「五十万の米国人(将兵)の命を救うために」原爆を使用すべきだと考えていた者など一人としていなかった。広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、二十億ドルもの資金を投入したプロジェクトのもつ政治的・機構的勢い、そして、第二次大戦の熾烈な戦闘を通じて、(市民を戦闘行為に巻き込まないという)旧来の道徳観が崩れてしまっていたからにほかならない。この道徳観の衰退こそ、後における核兵器による恐怖の時代の背景を提供したのである。ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜ、米国を含む他の諸国の道徳観までもがかくも荒廃していたのか、この点にこそわれわれが歴史の教訓として学ぶべきテーマが存在する。
- 原爆投下をめぐる道徳的疑問
- 日本からドイツへの投下目標の変更
- 使用するという前提
- 何を攻撃目標とするのか
- どのように使用するか
- 民間人を犠牲者にすることへの懸念
- 採用されなかった方策
- なぜ投下され、何が問題だったのか
<原爆投下をめぐる道徳的疑問>
今から五十年前の一九四五年の八月、米国は三日間のうちに二発の原爆を日本に投下した。これによって、少なく見積もっても十一万五千を超える人々が命を落とし、悪くすれば、犠牲者の数は二十五万人に達したとも考えられる 。これに加えて、少なくとも十二万の人々が負傷したと推定されている。戦後米国では、なぜ原爆が投下されたのか、それがどのように使用されたのかをめぐって、道徳的、歴史的疑問が表明されるようになる。(もしドイツ降伏前に原爆が完成していれば)原爆はドイツに対して使用される可能性があったのか? なぜ都市が投下目標とされ、その結果、多くの民間人が犠牲になってしまったのか? 一九四五年の十一月一日に予定されていた九州への上陸作戦(オリンピック作戦)を回避し、戦争を速やかに終結させるための他の手段は存在しなかったのか、と。
だが、こうした疑問にしても、政策決定者たちが、原爆を広島や長崎に投下するまでの検討段階において、道徳的な問題をそれほど考慮しなかったという点をしばしば見落としてしまっている。米国は原爆の開発をめぐってドイツと競争していたわけであり、もし原爆が実際よりも早く開発されていたら、当然、ドイツに対して使用されていたはずである。だがドイツの降伏によって、その投下目標は日本へとシフトしてしまった。また、第二次世界大戦の残忍な戦闘において、すでの都市の民間人が標的とされた先例はすでに提供されていた。枢軸国による都市を標的とした空爆作戦はつとに有名である。
また、戦争末期における米国空軍によるドイツへの空爆も、大規模な民間人が犠牲になることを意図した上で実施されていたわけだし、この戦術は、一九四五年の日本の都市への空爆作戦の際にも適用された。こうした民間人を標的とする空爆の実施は、(政策決定者の)道徳観に変化を与え、民間人の犠牲者を出さぬように、交戦国は都市への攻撃を行なうべきではないという戦前におけるフランクリン・ルーズベルト大統領の約束は実質的に忘れ去られてしまっていたのである。事実、一九四五年までには、米国の政策決定者たちは、日本に対する原爆の使用を回避しようとはしなくなっていた。しかし、公文書をめぐるより最近の研究から判断すれば、たとえ米国が原爆の投下以外の戦略を採用していたとしても、気の進まない日本本土侵攻を行なう前の段階、すなわち十一月以前の段階で戦争は終結していた可能性が高いのである。
<日本からドイツへの投下目標の変更>
・・・・原爆開発が成功する前に・・・・ドイツが降伏するのは状況からみてほぼ間違いなく一九四四年半ばまでには、ルーズベルトと彼の側近たちは、この兵器がドイツにではなく、日本に対して使用される可能性が高くなっていることを理解していた
一九四一年、ルーズベルト大統領は、ナチス・ドイツからの亡命科学者や米国の科学者に促され、後にマンハッタン計画と呼ばれる原爆開発計画を開始を命じたが、その目的は、原爆開発をめぐってドイツに何とか先を越されないようにすることと考えられていた。ルーズベルトや彼の側近たちは、当初から、原子爆弾のことを、開発が成功した場合にはまずドイツに対して使用すべき合法的な兵器とみなしていた。さらに、彼らは、たとえソビエトと現実に軍事的協調行動をとるようになった場合でも、彼らに原爆の開発計画を悟られないようにすることを決めていた。米国の政策決定者たちは、原爆を保有していれば、ソビエトの将来における(行動を牽制するための)カードになると考えていたからである。
一九四四年半ばまでには、戦況は大きく変化し、ルーズベルトと彼の側近たちは、この兵器がドイツにではなく、日本に対して使用される可能性が高くなっていることを理解していた。原爆開発が成功するのが一九四五年の春ころと目されていたのに対して、おそらくその前にドイツが降伏するのは状況からみてほぼ間違いないと考えられていたからである。ルーズベルトとチャーチル首相は、一九四四年九月のハイドパーク会談での秘密メモランダムにおいて、原爆の攻撃目標をドイツから日本へと変更することに合意している。とはいえ、この文書の表現から判断するかぎり、彼らは実際に原子爆弾を使用することに関して少しばかり懸念していたのかもしれない。実際彼らが合意したメモには、「(原爆は)、慎重な考慮を行なったのちに、おそらく、日本人に対して使用されるかもしれない」(It might perhapes, after mature consideration, be used against the Japanese)と書かれている。
ハイドパーク会談の四日後、ルーズベルトは彼の科学担当主席顧問であるバネバー・ブッシュ、そしてある英国人の外交官とともに、原爆の取り扱いを検討していたが、その際、大統領は、原子爆弾を実際に投下すべきなのか、それとも、日本側の視察団を招き、米国内での原子爆弾の実験に立ち会わせ、それを恫喝策としても用いるべきなのかについて思いをめぐらした。だが、おそらく、大統領のこの発言は、このときの会議の本筋から見ればまったく重要性を欠いていたのであろう、また、この方策が、(開発の曉には敵国に対して現実に使用するという)マンハッタン計画のかねてよりの前提とまったく相反するものだったせいかもあるかもしれないが、ブッシュは、会議のメモをまとめる際に、このルーズベルトの発言を記載するのを忘れてしまっている。実際、翌日になって大統領の発言を思い出したブッシュは、異なるメモランダムにルーズベルトの発言を手短にをつけ加えている。
原子爆弾を敵国に対して使用するという考えは当時における支配的な前提だった。ルーズベルトが実際に核兵器を使用することに時折疑問を抱いたといっても、それは、四年間の間にわずかに二回である。原子爆弾の開発計画のことを知る大統領側近たちの全ては、それが間違いなく現実に使用されると考えていた。実際、彼らがまとめたメモランダムには、「使用された後には」、「使用された時点で」という表現はあっても、「もし使用されたら」という表現は一つとして存在しない。そして、一九四四年の半ばまでには、彼らのほとんどは、日本が標的であるとほぼ確信するようになっていた。
原子爆弾は、合法的な兵器として考えられていたし、この認識は、一九四四年九月に、マンハッタン計画のリーダー役だったレスリー・グローブス少将が、空軍に千七百五十名からなる五〇九混成部隊の編成を命じ、部隊が投下訓練を開始したことによって、官僚機構のなかでも事実上確認されたといえよう。
原子爆弾を日本に対して使用するという前提はきわめて支配的なもので、ドイツ降伏後の段階で、この前提に疑問を発した高官は、陸軍次官のロバート・パターソンただ一人だった。彼自身は、一九四五年の五月八日のドイツ降伏によって、日本への原爆投下計画にも変更が生じるかもしれないと考えたが、現実にはそうした変更がなされることはなかった。
<使用するという前提>
議会の承認も得ずに、・・・、ほぼ二十億ドルものお金をつぎ込んだ計画を政治的に正当化するには、それを実際に使用する以外に手はなかった
約二十億ドルもの費用をつぎ込んだマンハッタン計画だったが、これに関して議会はほとんど言っていいほど知らされていなかった。信頼できる共和党員と目されていたヘンリー・スチムソン陸軍長官、そして、スチムソン同様に尊敬されていたジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は、ごく一部の議員に計画の存在を話した。そして彼らは、主要な歳出委員会のほとんどのメンバーを含む、他の議員たちに計画の存在を悟られることなく、必要とされるコストを軍の予算に流し込んだのである。大統領府と立法府におけるほんの一握りの人々によって合意された国益をめぐる共通認識をもとに、彼らは、暗黙のうちに、通常の歳出プロセスを無視した行動をとったわけである。
一九四四年三月、当時、議会の特別調査員会の委員長職にあったある民主党の上院議員が、大統領府が膨大なコストを要するプロジェクトに従事していることを暴き出そうと試みるが、この際、スチムソン長官は、その人物のことを日記に、「厄介でまったく信用できない人物。 ・・・きわめてスムースな口調で語るくせに、その行動は下品だ」とこき下ろしている。この人物とは、誰あろう、ハリー・トルーマン上院議員のことである。マーシャルは、この計画に関する調査を止めるようにトルーマンを説得し、結局彼は、一九四五年の四月十二日に突然大統領に就任するまでは、この計画が何らかの新型爆弾に関するものであるということ以上の事実は知らなかったのである。
一九四五年初め、当時、ルーズベルトの国内問題担当の「大統領名代」(assistant president)のごとき役割を果たしていた抜け目のない民主党の政治家、ジェームス・バーンズは、マンハッタン計画が無用の長物になりはしないかと懸念し始めた。彼は、大統領に「もしこの計画が失敗に終われば、情け容赦のない調査が行なわれ、厳しく批判されることになるだろう」と警告した。だが、こうしたバーンズの懸念も、スチムソンとマーシャルがまとめたレポートによって払拭されることになる。この軍がまとめた極秘特別レポートは、状況を、幾分誇張しながら、次のように説明していた。「もし計画が成功すれば、調査が行なわれることあり得ないし、もし失敗したとしても、(計画をだれも知らない以上)たいした調査はできない」と。
もしルーズベルトが死なずに(最終的な投下決定の最高責任者だったとすれば)、そうした国内政治上の圧力は、、敵に対して原子爆弾を使用するという彼がすでに決定していた方向性や前提をさらに強化したはずである。議会の承認も得ずに、そうでなければ、他の軍事プロジェクトにまわしてより有効に利用できていた可能性のある希少な資源を一カ所に集め、しかも、ほぼ二十億ドルものお金をつぎ込んだ計画を政治的に正当化するには、それを実際に使用する以外に手はなかったはずである。米国は科学者をそもそも信用しないお国柄であり、それが、原子爆弾の使用という形で劇的に誇示されなかったとすれば、マンハッタン計画は膨大な無駄とみなされていたであろう。
マンハッタン計画を引き継ぎ、マーシャルとスチムソンを信頼していた(新大統領の)トルーマンは、そうした政治的プレッシャーにさらに弱い立場にあった。結局、新大統領も、ルーズベルト同様に、原子爆弾は使用されるべきだし、現実に使用されるだろうという前提を疑うことなく受け入れたのである。トルーマンは、自分が大統領になる前にすでに設定されていた前提に疑問をいだくことはなかったし、すでに動き始めていた(プロジェクトの持つ)機構的な勢いは、こうしたトルーマンの姿勢を強化する作用をもった。そして、ルーズベルト政権からほぼそのまま引き継いだ彼の顧問たちも、同様の信念を抱いていたのである。
<何を攻撃目標とするのか>
敵国の市民であれば大量殺戮さえもむしろ好ましいとさえ考えるような、新たな道徳(倫理的)価値観のもと、投下目標選定委員会は、原子爆弾の投下目標として、「直径三マイル以内に人口密集地帯がある大都市部」を選ぶことに合意した
原子爆弾計画をめぐる主導権を維持したいと考えていたグローブス少将は、一九四五年の春の初めに、新型兵器の投下目標の選定の任にあたる許可をマーシャルから得た。グローブスと彼の側近たちは、それが、おそらくは、二千五百機の爆撃機が同時に通常爆弾を投下した場合とほぼ同じ威力を持つ、まったく新たな破壊性をもつ兵器であることをかねてより理解していた。彼らは、この爆弾は「地面よりもかなり高い地点で爆発し、その爆風によって物的ダメージがもたらされる。(したがって、たとえ)、それが最低限の効率でしか爆発しなかった場合でも、可能な限り多くの建築物(住居や工場)を修復不能なまでに破壊することができる」と想定していた。
四月二十七日、グローブス、ローリス・ノースタッドをはじめとする空軍関係者、さらには優れた数学者であるジョン・ノイマンを含む科学者よって構成される投下目標選定委員会は最初の会議を行ない、日本のどこに、どのようにしてこの新型爆弾を投下すべきかを検討した。当時、原爆が完成するのは四五年の夏と考えられていたが、たとえ日本の夏の気象状況が爆弾の投下には必ずしも好ましくないとしても、彼らはこの切り札を無駄遣いしてはならぬと考え、レーダーではなく、目で確認して爆弾を投下することを決定した。
原爆の投下に適切な目標が数多くが存在したわけではなかった。空軍はすでの「石ころの一つも残さぬようにという・・・大きな目標の下に、東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、八幡、長崎を組織的に爆撃していた。・・・空軍は、日本の主要な都市を廃墟同然とすることを目的とする作戦に従事し・・・既存の計画では、東京そのものを吹き飛ばすこと(to bomb the hell out of Tokyo) 」になっていた」のである。目標選定委員会も当然この事実を理解していた。
一九四五年初頭までには、第二次世界大戦、特に太平洋での戦闘は、文字どおりの全面戦争に突入していた。すでに、ドレスデンに対する大規模な空爆の先例が存在したことは、空軍が、米国市民の支持のもとで、意図的に日本の民間人を大規模に殺戮することに道を開いていたといえよう。非戦闘員を巻き込まないという当初の道徳観も、熾烈な戦闘という環境のもとで瓦解していった。三月九日から一〇日にかけて実施された、東京への空爆作戦では、約八万人の民間人が犠牲になった。米国のB-29爆撃機は、手のつけようない大火災を起こそうと、東京の人口密集地帯に焼夷弾を投下したのである。たしかに、(市民を巻き込んだ形での)このような新たな戦争形態をとるのは、ヨーロッパにおいてよりも日本においてのほうが心理的にやりやすかったかもしれない。なぜなら、米国市民とその指導者の多くにとって、日本人は「黄色い人間以下の存在」(yellow subhumans)のように思えたからである。
敵国の市民であれば大量殺戮さえもむしろ好ましいとさえ考えるような、新たな道徳(倫理的)価値観のもと、投下目標選定委員会は、原子爆弾の投下目標として、「直径三マイル以内に人口密集地帯がある大都市部」を選ぶことに合意した。四月二十七日の会議では、「第二十一爆撃編隊の優先攻撃目標にリストアップされておらず、いまだ手つかずの状態にあるという点では日本最大の都市である」広島、「鉄鋼産業で有名な」八幡、横浜、そして、「もはや現実的には爆撃し尽くされ、燃え尽きて・・皇居以外は瓦礫の山と化してしまっている可能性のある」東京という、四つの都市に的を絞った議論が行なわれ、さらに、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保に関しても、今後さらに真剣に検討していくことを決定した。
投下目標都市の選定要素は、一つには、爆弾がどのように機能するか、つまり、爆風、熱風、放射能がどのようなバランスで広がりをみせるかだった。五月十一日と十二日の両日に渡って行なわれた二回目の会議において、ロス・アラモス研究所の所長を務めていた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、(長崎型)原子爆弾に使用されている物質(プルトニウム)だけでも十億人を殺せるほどに有害なもので、爆弾はこれに加え、致死的な放射能を発すると強調した。空中で爆発した際、「プルトニウム、あるいは、放射性物質のほとんどは投下地点およびその近隣地域の大気中に浮游することになると考えられるが、・・・当然(投下地点)にいる被爆した人間にも影響を与えることになる」。
だが、ほとんどの放射性物質がどうなるかは分からない」とオッペンハイマーは認めている。「爆発の起きた場所の上空に雲があれば、放射性物質は数時間にわたって空気中に漂っていることになるかもしれないし、爆発の段階で雨がふっていたり、湿度が高くその後雨になるような場合には、放射能は投下目標地域の地表に降りてゆくことになる」。オッペンハイマー・レポートは、投下地域の人口のほとんどが死亡するのか、あるいはその一部だけが死亡することになるのかについては明確にしていない。この点に関して十分な文書が残されているわけではないが、この問題を詳細に検討しようとした目標選定委員会のメンバーは一人としていなかった。おそらく彼らは、放射能が降り注ぐ前に、爆風によってほとんどの人々が犠牲になると考えていたのかもしれない。
彼らは、目標選定の過程で、東京の皇居を攻撃目標にすることも検討し、「われわれは皇居を攻撃目標とすることを推薦すべきではないという点で合意しているが、もし皇居を攻撃するとすれば、その決定は、軍事政策の責任当局によってなされるべきである」と記している。その後彼らは、皇居を原爆の攻撃目標とすることの効率性についての情報収集を行なうことを決定している。
目標選定委員会は、京都、広島、横浜、小倉という四つの都市を主要な攻撃目標として選び出し、予備のために第五の候補地として、テニアン基地の第五〇九編隊からみれば、これらの都市よりもさらに遠隔に位置する新潟を選んでいた。日本の古都で多くの寺院が存在し、百万の人口をもつ京都は、もっとも魅力的な投下目標と考えられていた。委員会の会議録は、「心理的側面から見ても、京都は日本の知性の中心地であり、それだけに、人々が原子爆弾のインパクトをより的確に理解するという利点がある」と記している。つまり、彼らは、知識人と目されている京都の人であれば、爆撃を生きのび、惨劇を目撃した彼らの証言を、他の地域の日本人が信用する可能性が高いと考えたのである。
目標選定委員会は、原子爆弾が恐怖の兵器として認識されることを最重要と考えていた。彼らは、「日本に対して最大限の心理的インパクトを与える」とともに、米国がまったく新たな力を保有したことを、世界、特にソビエトに認識させるような形で使用されるべきだと強調した。膨大な人的犠牲と破壊を前にすれば、日本人は恐怖心を抱くだけでなく、降伏を求めるようになると予想されるし、さらに「ボーナス」(おまけ)として他の諸国、とくにソビエトを威圧することにもなる。つまり、(原爆の投下は)、戦争の終結を早めるとともにに、戦後世界の構築をも助けると考えられていたのである。
二週間後の五月二十八日に開かれた第三回会議の頃までには、 彼らは明確に目標を決めていた。彼らは、京都、広島、新潟の順で候補地を特定し、各都市の中心地を投下目標とすることを決定した。委員会は、(日本の)工業地帯は小規模で、各都市の端のほうに分散して存在するため、攻撃目標としてはふさわしくないと結論づけた。彼らはまた、爆弾の投下が正確なものとはなりえず、目標から最大五分の一マイルの誤差が生じる可能性があることを認識し、原爆がその威力を見せつけ、無駄にならないように配慮すべきだと考えた。
委員会は、(決定がなされた以上)、原子爆弾による攻撃用にとっておくために、いずれ、これら三つの都市は米軍の通常攻撃の対象からはずされることになるだろうと考えていた。しかし、空軍側は、「現在の空爆作戦の実施現状から考えて、一九四六年一月一日までには日本に対する戦略爆撃を完全に終了する可能性があり、原子爆弾の投下目標を探し出すのは困難かもしれない」と委員会に伝えている。つまり、すでに日本は相当規模爆撃しつくされていたのである。
<どのように使用するか>
暫定委員会は、(戦闘をめぐる旧来の道徳的価値を踏まえて)軍事目標への投下に限定したわけでも、(新たに形成されつつあった道徳・倫理 価値を受け入れて)民間人をターゲットに限定したわけでもなかった
一九四五年五月二十八日、原爆政策をめぐって最近設立された暫定委員会に対してアドバイスを行なう科学部会のメンバーでノーベル物理学賞の受賞者でもあるアーサー・コンプトンは、原子爆弾をいかに使用するかについての道徳、政治上の問題提起を行なった。「原子爆弾の使用は、歴史上先例のない(瞬時にしての)大量殺戮という問題を引き起こすことになる。また、人体に有害な放射能を投下地点の上空にまき散らす可能性もある。本質的に、新型爆弾の・・・使用は、単なる毒ガスの使用をはるかに上回る深刻な問題を引き起こすことになる」と。
コンプトンの懸念に(多くの人は関心を示さなかったが)、マーシャルはこれを真剣に受けとめ、翌日の五月二十九日に、スチムソン長官に対して、米国はこの兵器を最初から民間人を標的として投下するのではなく、まず最初に軍事施設(おそらくは海軍基地)に対して使用し、その後、市民が十分な時間的余裕をもって避難できるような事前警告を行なった後に、大規模な工業地帯に対して使用すべきかもしれないと語った。マーシャルは、「新型兵器の用い方を誤れば、(米国は)汚名を被ることになる」と懸念したのである。
バージニアの陸軍士官学校を卒業し、軍人として教育されたマーシャルは、意図的な民間人の殺害を行なわないという旧来の軍隊の規律との間で悩んでいたのである。科学者としてのコンプトン、軍人としてのマーシャルの懸念は、民間人を戦闘から切り放すという それまでの価値に基づくものだったが、こうした旧来の価値は、ことの火急性をめぐる逼迫感、人間相手に原爆を使用したいとする願望、そして、ワシントンの政策決定中枢へのラインを持つ人々が、旧来の道徳的価値を維持すようにと強く働きかけることに関して、気乗りがしなかったか、あるいは、そうした能力を持っていなかったため、次第に力を失っていった。
一九四五年五月三十一日、スチムソン、ブッシュ、ジェームス・コナント・ハーバード大学長、物理学者のカール・コンプトン、新たに国務長官に指名されたジェームス・バーンズ(正式の任命は七月)、その他の有力者によって構成される暫定委員会は、原子爆弾をめぐる検討会を行なった。会議の冒頭において、民間人を対象にした大規模な空爆作戦に心を痛めていた長老のスチムソン陸軍長官は、原子爆弾のことを、「世界と人間の新たな関係」を具現するものであり、「この発見は、コペルニクスの(地動説)や(ニュートンの)重力の法則の発見に匹敵するもので、人間生活への(現実的)影響という点では、それらよりもはるかに重要なものである」と語った。
この会議が行なわれたのは、アラモゴードで最初の核実験が行なわれる六週間前のことで、彼らも、この新兵器が現実にどのような威力をもつのかについては確信がもてずにいた。オッペンハイマーは、暫定委員会のメンバーに対して、「原子爆弾は、TNT火薬二千トンから二万トンに匹敵する破壊力を持っており、その視覚的な効果もすさまじく、爆発の際には、上空一万から二万フィートにも達する閃光がたちのぼることになろう」と説明した。さらに彼は、「ニュートロン効果(放射能)は、少なくとも(爆発地点から)半径三分の二マイルにいる人間の生命を脅かすだろう」と指摘し、その犠牲者を二万人と推定した。
委員会の議事録によれば、暫定委員会は、「多様な形態の投下目標と、それぞれの爆発の効果」について議論を行なった結果、委員会における「一般的な合意が存在する」として、スチムソンが次のような結論を語ったと記録している。「われわれは日本側に対して事前に警告を与えてはならない。(そして)市街地を集中的に攻撃してはならない。(とはいえ)、可能な限り多くの市民に対して衝撃的なインパクトを与えるような形で(原爆を使用すべきである)。コナント博士の提案を受けて、スチムソンはもっとも好ましいターゲットが、労働者の家に取り囲まれた形で存在し、膨大な数の労働者が働いている兵器生産工場であることに合意した」と。
原子爆弾は現実に使用するために開発され、開発プロジェクトにはすでに二十億ドルものコストが投入されていたし、・・また、原爆を使用すれば、ソビエトを威圧することにもなり、戦後世界において彼らを扱いやすくなると考えられていた
スチムソンの指導のもと、暫定委員会は、(民間人が犠牲になるような)恐怖の爆撃を、幾分気後れしながらも、実際には承認した。彼らは、マーシャルが提案したように(戦闘をめぐる旧来の道徳的価値を踏まえて)軍事目標への投下に限定したわけでも、(新たに形成されつつあった道徳・倫理 価値を受け入れて)民間人をターゲットに限定したわけでもなかった。彼らは、(民間人が犠牲になるような)恐怖の爆撃の実施を、それを明確に認めることなく決定したのである。委員会のメンバーのすべては、たとえ昼間に攻撃が行なわれるとしても、「労働者が生活する家」には女性、子供はもちろん、労働者の一部が(民間人として)いる可能性があることを認識していた。
いつ、どのようにして、非軍事的デモンストレーションを通じた原子爆弾の威力の誇示という概念が誕生したのか、それが、委員会の午前、午後の会議だったのか、あるいは、昼食中、それとも、その全てに時間における関心事だったのか、メンバーたちの記憶はまちまちである。原子爆弾をどのような形で使用するかを検討するのは、スチムソンの懸案ではなかったし、暫定委員会に課せられた任務の一部だったわけでもなかった。
だが、スチムソンは、一時的だったにせよ、非軍事デモンストレーションという発想に関心を示したようである。しかし、委員会は、こうした方策を即座に拒否した。非軍事的なデモンストレーションという方策は、さまざまな理由であまりにリスクが大きすぎたからである。原子爆弾がうまく爆発しないかもしれないし、日本の空軍が爆撃機の飛来を邪魔しようとするかもしれなかった。また、(そうした方法で)原子爆弾の(威力を誇示したとしても)、日本の軍国主義者が強硬姿勢を崩さぬ可能性もあったし、落とすと予告した地点に、日本側が、日本国内に抑留されている連合国の捕虜を集める危険もあった。
五月三十一日の議論は、日本に対してどのように原子爆弾を使用するかに集中した。一時的とはいえメンバーのなかの一部には、同じ都市に複数の原子爆弾を同時に投下するという考えを考慮する者もいたが、グローブスは、一つには、そうしたやり方では、「効果を見極めるという点で、(原爆攻撃と)通常の空爆作戦との区別が付けにくくなるとして」この考えに反対した。
他のメンバー同様に、グローブスも、一機の爆撃機による一発の原子爆弾だけでも、膨大な数の人々を殺す劇的な破壊力があると信じていた。たしかに、空軍にしてみれば、膨大な数の日本人を空爆によって殺戮するのは何も目新しいことではなかったかもしれない。だが、原子爆弾の投下という手段は、(瞬時による破壊・殺戮)という点でまったく新たなものだった。米国側が八月上旬に発した声明において強調したように、新型兵器を使用すれば、日本の都市への更なる核攻撃が行なわれる可能性、つまり、「破壊の雨」が継続されることに対する(日本側も懸念も高まる)はずだった。
暫定委員会の会議から二週間後の七月十六日、ドイツから亡命してきた物理学者のジェームス・フランク、レオ・シラードをはじめとするシカゴの研究所のメンバーの一部が、原爆を警告なしで日本に使用することをめぐる道徳上・政治上の問題を提起したのを受けて、四人のメンバーからなる科学問題特別諮問委員会が、非軍事的なデモンストレーションを通じた恫喝策という考えを検討したが、委員会は最終的にこれを却下した。この委員会は、物理学者のアーサー・コンプトン、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、アーネスト・ローレンスをメンバーとしていた。あるレポートによれば、非軍事的デモンストレーションという方策を最後まで諦めようとしなかったのは、ローレンスだったそうである。
当時は他の三人とまだ論争状態になかった一九五四年、オッペンハイマーは当時をふりかえって、週末に開かれる委員会のせわしい会議において、非軍事的なデモンストレーションという方策を討議することが特に重要だったわけではないし、当然、委員会にとって大きな関心ごとだったわけでもない、と述べている。六月十六日、四人の科学者たちは、「われわれには、技術的(非軍事的)なデモンストレーションで戦争が終結するとは考えられない。直接的な軍事使用以外に、受け入れられる他の選択肢は存在しないと考える」と結論した。
だが、当時、この科学諮問委員会のメンバーたちは、日本の状況、つまり、日本の軍国主義者の国内での力、一部の勢力が交渉による和平を密かに模索していたこと、さらには、九州上陸作戦の日時や、その段階では実験されていなかった原子爆弾の威力などについてほとんど知らなかった(委員会のメンバーの一部は、後に不承不承この事実を認めている)。オッペンハイマー自身は後に、「われわれは軍事状況に関してはあまり知らなかった」と認めている。
とはいえ、科学者たちが実際とは異なる提案を行なっていたにせよ、現実に取られたコースは覆すのは不可能だったと思われる。原子爆弾は現実に使用するために開発され、開発プロジェクトにはすでに二十億ドルものコストが投入されていた。さらに。トルーマンとその主要な政治顧問だったバーンズは、原爆の使用を回避したいとは考えていなかったし、スチムソンにしても同様だった。これ以外にも、彼らが原爆を現実に使用したいと考える理由が存在した。彼らは、原爆の使用はソビエトをも威圧することになり、戦後世界においてソビエトを扱いやすくできると考えたのである。
スチムソンは、トルーマンにあてた四月二十五日付のメモでこの点を強調している。「この兵器をいかに適切に使用するかという問題が解決すれば、世界の平和とわれわれの文明を守る方向へと世界を導く機会を手にできる」と。一九四五年の春から夏にかけて、スチムソンの頭につねにあったのは、原子爆弾のこと、そして、それがソビエトとの関係にどのような影響を与えるかだった。 そして、トルーマンとバーンズも、おそらくは、こうしたスチムソンの影響もあって、原爆を通じて(ソビエトを牽制するという)考えを重視するようになっていた。
<民間人を犠牲者にすることへの懸念>
「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」
一九四五年、空軍の爆撃によって数十万人の日本の民間人が犠牲者となっていたが、この作戦の攻撃の指揮をとっていたスチムソンはこの現実に心を痛めていた。 通常彼は、このおぞましい現実を直視するのではなく、空軍は(軍事施設をターゲットとする)正確な爆撃を行なっており、それが時に正確さを欠いてしまうこともあると理解するようにしていた。非戦闘員の意図的な殺害を認めない旧来の道徳観と、文字どおりの全面戦争を重視する新たな価値観の間を揺れ動いていたスチムソンではあったが、彼は、現実を正面から捉えようとも、また、完全に現実から目を逸らそうともしなかった。 彼は偽善者ではなかったが、曖昧さの中に身をおく、悩める人だった。
スチムソンは六月六日に、この問題をトルーマンに話している。スチムソンは、空軍による大規模な空爆作戦を懸念していることを強調しながらも、それを緩和させるのは現実的に困難だと考えていた。スチムソンは日記に次のように記している。「私は、現在のような戦争のあり方について二つの理由から懸念していると彼(トルーマン)に語った。第一に、私は、米国がヒトラーをも上回る残虐行為に手を染めたという汚名をきせられたくないと考えている。そして、第二に、(原子爆弾が完成する)まえに、空軍が日本を完全に爆撃し尽くすとすれば、新兵器の威力をみせつけるのに妥当な環境(標的)を失ってしまうかもしれないと少しばかり懸念している」。スチムソンによれば、トルーマンは、笑いながら、「わかった」と語ったという。
旧来の道徳的価値と新型兵器をもつ利益を確保したいという考えの間で揺れ動きながらも、スチムソンは、これと比べれば小さな問題、つまり、グルーブスが作成した爆撃リストから京都をはずすことに関しては毅然たる態度をとった。とはいえ、スチムソンが京都市民の命を救おうと試みたわけではなく、彼は京都の文化的遺産を救おうとしただけだった。とうのも、彼は、京都の文化遺産を破壊してしまえば、日本は米国に敵意を抱き、ソビエトの側につこうとするとかもしれないと考えたのである。
スチムソンは七月二十四日の日記に次のように記している。「そうした野蛮な行為の結果(日本人が米国に対して抱く)敵意は、戦後において日本人が米国人と和解するのを長期的に不可能とし、むしろ、日本人はソビエトと和解してしまうかもしれない。つまり、(京都の文化財を攻撃目標とすることは)、ロシアが満州に侵攻した際に、日本を米国よりにするといるわれわれの政策が要求する環境を不可能にしてしまう」と。
トルーマンは、この件に関してスチムソンを支持し、私的な場において、原子爆弾は軍事目標に対してのみ使用されるべきだと主張した。だが、大統領が、原爆が投下されれば不可避的に数多くの民間人が犠牲になるという点から目を背けようとしていたのは明らかである。七月二十五日、ポツダムにおいてトルーマンは、アラモゴードの爆風によって膨大な破壊力が実証されたことを伝える熱を帯びたレポートを受け取り、その詳細を克明に日記に記している。(爆発によって)直径千二百フィートのクレーターができ、〇・五マイル離れた地点にあった鉄塔が破壊され、六マイル離れた所にいた人間が爆風で倒された。「われわれは世界の歴史においてもっとも恐るべき兵器を完成させた。これは、予言者のいう終末の火なのかもしれない」。
しかし、京都の代わりに、長崎と小倉という都市を明記した原子爆弾の投下目標の最終リストを承認する段階になると、 トルーマンの態度は微妙に変化していく。彼は日記に次のように記している。「私は、スチムソン陸軍長官に対して、(原爆の投下目標は)軍事施設、兵士、水兵であり、女性や子供ではないと語った。たとえジャップが、残忍かつ向こう見ずで、情け容赦がなく、しかも狂信的だとしても ・・・原爆が投下されるのは、純粋な軍事目標である」。トルーマンは、膨大な数の民間人が犠牲になることを知ってながら、それから目を背け、自己欺瞞的な態度をとっていたのかもしれない。
だが実際には、広島、長崎の双方とも「純粋な軍事ターゲット」などではなかった。にもかかわらず、実際に原爆が投下されるかなり前の段階でまとめられた、公的なプレス・リリースは、この問題をさらりとかわしている。例えば、広島のことは単に、「重要な日本の軍事基地」とされているのみである。だが、このプレス・リリースは、これらの都市が選ばれたのが、一つには、非戦闘員の犠牲を劇的に演出するためのものであることを知っていた人物によってまとめられていた。
八月十日、長崎への原子爆弾の投下の翌日、原爆による大量殺戮の規模の大きさと、日本側が条件付きの降伏を申し出ていることを理解していたトルーマンは、閣議において、これ以上、女性や子供を犠牲者にしたくないと語った。さらに原爆を投下すべきだという要求を退けたトルーマンは、もはや二度とこの兵器を使わずにすむようにと願った。二発の原子爆弾の投下によって、膨大な規模の犠牲者がでたことに胸を痛めたトルーマンは、民間人には(原子)爆弾を使用すべきではないという旧来の道徳的価値観 へと回帰しつつあったのである。だが一方で彼は、通常爆弾による都市への大規模攻撃の継続を認め、その結果、焼夷弾、その他の爆弾によって多くの人々が犠牲になった。八月十日から戦争が終わる十四日の四日間に、 延べ千機の爆撃機が出撃して都市を攻撃し、 日本が降伏を宣言した後も、一部では爆撃が行なわれた。これらの攻撃によって、一万五千人を超える日本人が 犠牲になったと推定されている。「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」とトルーマンは日記に記している。
<採用されなかった方策>
たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない。
八月十日以前の段階で、トルーマンと彼の側近たちが原爆の使用を回避しようと試みたことはなかった。事実、彼らは、非軍事的な形で原爆の威力を見せつけるという選択肢をあっさりと退けている。たしかに、広島に原爆が投下されて以降も、日本の軍指導層が徹底抗戦を主張していた以上、たとえ、非軍事的デモンストレーションを通じて原爆の威力を見せつけたとしても、日本が短期間のうちに降伏することはなかっただろう。いずれにせよ、米国の指導者たちは、無条件降伏を緩和させて、天皇制の維持(国体の護持)を認めるという方策、ソビエトの参戦を待つという方策、海上封鎖を行なった上で通常爆弾による都市攻撃を継続するという方策など、原爆投下に代わる他の選択肢を模索しようとはしなかった。
実際、トルーマンとバーンズは、無条件降伏の緩和によって、日本が短期間のうちに降伏するとは考えていなかった。彼らは、条件を緩和させれば、むしろ日本の軍部はさらなる妥協を求めて大胆になり、戦争が長期化すると考えていた。であればこそ、大統領とバーンズ国務長官は、国体の護持を認めて早期終結を図るべきだというスチムソンの提案をあっさりと退けたのである 。
同様に、米国の指導者のほとんどは、ソビエトの太平洋戦争への参戦が状況に大きな変化をもたらし、日本の降伏を大いに早めるとは考えていなかった。一般的に言って、米国の指導者は、ソビエトの参戦が、(大規模な米国側の犠牲者がでることが予想される)九州上陸作戦を回避する、つまり、その前に終戦に持ち込むための助けになればと考えていた程度だった。ソビエトの参戦は当初八月の中頃と考えられていたが、おそらくは広島への原爆投下という事態を受けてのことだろうが、ソビエトはスケジュールを繰り上げて八日には参戦してきた。こうしたソビエトの動きが、八月十四日という早い段階での日本側の降伏の受け入れに大きな影響を与えたのは間違いない。たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない。(訳注:この論文における日付はすべて、米国の東部標準時間によるものである)。
米国の目的は、もし可能であれば、十一月一日に予定されている(九州への)上陸作戦 を何とか回避することだった。この七十六万七千人の兵力を投入しての上陸作戦が実施されれば、最初の三十日間で三万一千人の死傷者がでると予想され、最終的な犠牲者の数は二万五千人に達すると考えられていた。さらに米国の指導者たちは、一九四六年の三月に予定されていた、関東平野への第二次上陸作戦(コロネット作戦)を実施すれば、さらに一万五千の米兵が犠牲になると考え、これも何とか回避したいと考えていた。つまり、(戦後においてまことしやかな虚偽の主張が行なわれたが)、米国の指導者のなかで、一九四五年の春から夏の段階で、五十万の米国人(将兵)の命を救うために原爆を使用すべきだと考えていた者など一人としていなかったのである。
とはいえ、当時の愛国主義的な環境から考えて、日本本土への上陸作戦を実施した場合に犠牲になると思われる二万五千から四万の米国人の命を救うために、数多くの日本人を殺すことになる原子爆弾の使用を躊躇する者はいなかった。大胆な言い方をすれば、民間人を含めて日本人の命の重さは軽く見られており、多くの市民同様、米国の指導者の一部も、日本人を原子爆弾でこらしめるという考えに刺激を感じていたのかもしれない。
さらに、トルーマンとバーンズを始めとする米国の指導者たちは、彼らが原爆を使用せずに、しかも(相当規模の犠牲者が予想される)日本本土への上陸作戦が必要になるとすれば、それが国内政治上きわめて危険な状況を作り出すことを十分理解していた。もし米国の指導者たちが、原爆の使用を回避しようと望んだにせよ、犠牲になった米国将兵を家族にもち、悲しみにくれる両親や配偶者たちに同情した世論の怒りが自分たちに向けられることを恐れるあまり、結局彼らは、日本への原爆投下を決定していたであろう。
米国政府のなかで、一、二発の原爆の投下で戦争を早急に終結に持ち込めると考えていたものは誰もいない。彼らは、少なくとも三発は使うつもりだったし、おそらくはそれ以上の数の原爆を使用する可能性もあった。そして、長崎に原爆が投下された翌日までは、政策決定者の頭の中には原爆と通常爆弾の間の区別は存在せず、その双方を用いた大規模爆撃を通じて相手を降伏させることこそが彼らの目的だった。原子爆弾と通常爆弾は、一方が他方に代わり得るものとしてではなく、相互補完的な存在と見なされていたのである。だが、通常爆弾だけによる大規模な爆撃をその後数カ月にわたって実施していた場合でも、おそらく数十万の日本人が犠牲になっていただろうし、日本が、十一月一日前に降伏を望むようになっていた可能性はある。
全般的に考えて、日本の天皇制維持の保障、ソビエトの参戦、通常爆弾による攻撃の継続など、(原爆投下に代わる)代替策の一部だけでも、かなりの確率で、本土侵攻計画を実施する前に戦争を終結に持ち込めていたはずである。たしかに、ルーズベルトが好んで使った表現を借りれば、そうなる証拠に関しては仮説だらけ(iffy)だったもしれないし、 (原爆に代わる)他の戦略の採用によって、日本の軍国主義者たちが強硬な立場を緩和させると自信を持って主張するものはいなかった。しかし、われわれは、こうした選択肢が模索されなかったこと、そして、最初の原子爆弾の投下、そしてそれ以上に二つ目の原爆の投下を回避するような試みがなされなかったことを悔やむべきであろう。
一発めの原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、八月九日に長崎に落とされた二発めの原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった。 長崎へ原爆が投下されたのは、そもそも空軍に対して「準備が整い次第」投下せよという命令が下されていたからであり、また、広島への原爆投下後も、ワシントンでは誰一人として、日本が近く降伏すると考えていなかったからである。当時の日本政府内の状況に関する現在入手可能な証拠、とくに天皇が長崎に原爆が投下される直前に和平を求める決意を固めていたことから判断しても、長崎への原爆投下は間違いなく回避できたはずである。これは、少なくとも三万五千人、あるいは、悪くすればその二倍の数の日本人と、数千人の朝鮮人が、長崎において無為に殺されてしまったことを意味する。
トルーマン政権の指導者たちが原爆の使用を回避しようと試みたことはなかった。彼らは、原爆を軍事的に使用すれば、ソビエトを牽制するという「大きなボーナス(おまけ)」を確保できると考えていた。バーンズは、(日本への原爆投下によって)、ソビエトを威圧し、とくに東ヨーロッパ問題をめぐる彼らの行動を「より御しやすく」できると語っている。ソビエトを牽制することが原爆を使用した主要な動機だったわけではないが、投下の決定を固定化させた強い要因の一つであることは確かである。
もし、トルーマンと彼の側近たちが、シカゴの一部の科学者たちのように、日本に対する原爆の使用によって、ソビエトが御しやすくなるどころか、むしろさらに頑なになることを予見できていれば、彼らも、日本に対する原爆使用という方策に疑問をもったかもしれない。しかし、米国の指導者たちは、原爆の使用は一方で、ソビエトの東ヨーロッパでの政策を緩和させることができると考えたため、彼らが原爆の使用という当初の意図に疑問をもつことはなかったのである。また、もし疑問をもったとしても、決定は現実にとられたものとおなじものになっていたかもしれない。つまるところ、原爆の使用は、ルーズベルトが設定し、トルーマンが躊躇することなく踏襲した前提が現実に実施されたことを意味する。広島への原爆投下は、トルーマンにとって、頭を悩ませる必要のない決定だったのである。
<なぜ投下され、何が問題だったのか>
広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、第二次大戦の戦闘を通じて、(戦闘をめぐる)旧来の道徳観の再定義がなされたためであり、これが、その後における核時代の恐怖の源泉となっていく
米国人が原爆の投下は本当に必要で、望ましく、しかも道徳面での問題はなかったのだろうかと考え出したのは、政府の公文書が公開され、戦時中の敵意が薄れ、(問題をめぐる)感情が変化した戦後になってからだった。戦後に発表された、ウイリアム・レーヒ提督(大統領付幕僚長)、アイゼンハワー将軍など、戦争指導者たちの回顧録の出版とともに、日本に対する原爆の使用が妥当だったのかどうかをめぐって疑問ががもたれ始めるようになる。長崎への原爆投下後にトルーマンが時折主張したように、原爆の投下によって、日本本土への侵攻を行なっていれば失われていたはずの五十万の米国将兵の命を救えたという主張は誇張されており、救った可能性があるとしても、実際にはその数は五万程度だったということは、一九四五年六月、七月の時点での米国軍上層部のレポートから判断しても明らかであり、米国市民も次第にこの事実を認識するようになった。米国市民はまた、第二次世界大戦の戦闘、特に、民間人を標的とした大量殺戮がいかに残酷なものであったかも次第に理解するようになる。広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、第二次大戦の戦闘を通じて、(戦闘をめぐる)旧来の道徳観の再定義がなされたためであり、これが、その後における核時代の恐怖の源泉を提供していくことになる。
こうした道徳観の再定義が、ドイツによる六百万人ものユダヤ人の組織的殺戮、日本軍による南京大虐殺などに代表される、第二次世界大戦中の残虐行為を契機としているのは事実である。とはいえ、極端な残虐行為が旧枢軸国側によってなされたのは事実としても、当時の主要な国民国家のすべては、道徳的基準をめぐって分裂し、ときに彼らの指導者だけでなく、市民たちも(戦闘における新たな道徳観を)を是認していた。一九四五年までに、文字どおりの全面戦争の概念が定着するようになり、もはや(旧来の)道徳的な牽制要因はほとんど残されていなかったのである。敵の軍事勢力と民間人を区別しようとしたフランクリン・ルーズベルトの崇高な配慮さえも、次第に形骸化してしまっていた。当時の新たな道徳的価値観の下では、それがいかなる国であれ、原爆を手にした場合には、彼らはそれを敵に対して使用していたであろう。実際、スターリンだけでなく、英国の指導者も、米国による原爆の使用を問題にしようとはしなかった(訳注:原爆開発はソビエト側には知らされていなかったが、ポツダム会談において、トルーマンは、その事実をそれとなくスターリンに伝えている)。ましてや、それがドイツや日本の軍国主義者であれば、間違いなく敵国の都市に原爆を投下していたはずである。当時の米国の道徳観が特異的に(退廃していた)わけではない。原爆を唯一開発できたという点で、米国が技術的にみれ、例外的に進んだ状況にあっただけである。原爆をもっていたのが米国だけだったからこそ、それを使用したのは米国だけだったのである。
だが、こうした歴史的な文脈が存在したからといって、なにも米国市民やその他の人々が(原爆の投下という)行為を肯定的に認めてよいということにはならない。大切なのは、一九四五年の広島への原爆投下の前後において、その使用に反対するものが、(こうした歴史的文脈のゆえに)きわめて希だったことを認めることである。実際、当時において、なぜ米国が日本に対して原爆を使用したかを問いかける人々は ごく少数だったのである。だが、もし原爆が使用されていなければ、怒りに満ちた米国人を含むより多くの人々が、なぜ使用しなかったのかとトルーマン政権を批判していたのもまた事実であろう●
今から五十年前の一九四五年の八月、米国は三日間のうちに二発の原爆を日本に投下した。これによって、少なく見積もっても十一万五千を超える人々が命を落とし、悪くすれば、犠牲者の数は二十五万人に達したとも考えられる 。これに加えて、少なくとも十二万の人々が負傷したと推定されている。戦後米国では、なぜ原爆が投下されたのか、それがどのように使用されたのかをめぐって、道徳的、歴史的疑問が表明されるようになる。(もしドイツ降伏前に原爆が完成していれば)原爆はドイツに対して使用される可能性があったのか? なぜ都市が投下目標とされ、その結果、多くの民間人が犠牲になってしまったのか? 一九四五年の十一月一日に予定されていた九州への上陸作戦(オリンピック作戦)を回避し、戦争を速やかに終結させるための他の手段は存在しなかったのか、と。
だが、こうした疑問にしても、政策決定者たちが、原爆を広島や長崎に投下するまでの検討段階において、道徳的な問題をそれほど考慮しなかったという点をしばしば見落としてしまっている。米国は原爆の開発をめぐってドイツと競争していたわけであり、もし原爆が実際よりも早く開発されていたら、当然、ドイツに対して使用されていたはずである。だがドイツの降伏によって、その投下目標は日本へとシフトしてしまった。また、第二次世界大戦の残忍な戦闘において、すでの都市の民間人が標的とされた先例はすでに提供されていた。枢軸国による都市を標的とした空爆作戦はつとに有名である。
また、戦争末期における米国空軍によるドイツへの空爆も、大規模な民間人が犠牲になることを意図した上で実施されていたわけだし、この戦術は、一九四五年の日本の都市への空爆作戦の際にも適用された。こうした民間人を標的とする空爆の実施は、(政策決定者の)道徳観に変化を与え、民間人の犠牲者を出さぬように、交戦国は都市への攻撃を行なうべきではないという戦前におけるフランクリン・ルーズベルト大統領の約束は実質的に忘れ去られてしまっていたのである。事実、一九四五年までには、米国の政策決定者たちは、日本に対する原爆の使用を回避しようとはしなくなっていた。しかし、公文書をめぐるより最近の研究から判断すれば、たとえ米国が原爆の投下以外の戦略を採用していたとしても、気の進まない日本本土侵攻を行なう前の段階、すなわち十一月以前の段階で戦争は終結していた可能性が高いのである。
<日本からドイツへの投下目標の変更>
・・・・原爆開発が成功する前に・・・・ドイツが降伏するのは状況からみてほぼ間違いなく一九四四年半ばまでには、ルーズベルトと彼の側近たちは、この兵器がドイツにではなく、日本に対して使用される可能性が高くなっていることを理解していた
一九四一年、ルーズベルト大統領は、ナチス・ドイツからの亡命科学者や米国の科学者に促され、後にマンハッタン計画と呼ばれる原爆開発計画を開始を命じたが、その目的は、原爆開発をめぐってドイツに何とか先を越されないようにすることと考えられていた。ルーズベルトや彼の側近たちは、当初から、原子爆弾のことを、開発が成功した場合にはまずドイツに対して使用すべき合法的な兵器とみなしていた。さらに、彼らは、たとえソビエトと現実に軍事的協調行動をとるようになった場合でも、彼らに原爆の開発計画を悟られないようにすることを決めていた。米国の政策決定者たちは、原爆を保有していれば、ソビエトの将来における(行動を牽制するための)カードになると考えていたからである。
一九四四年半ばまでには、戦況は大きく変化し、ルーズベルトと彼の側近たちは、この兵器がドイツにではなく、日本に対して使用される可能性が高くなっていることを理解していた。原爆開発が成功するのが一九四五年の春ころと目されていたのに対して、おそらくその前にドイツが降伏するのは状況からみてほぼ間違いないと考えられていたからである。ルーズベルトとチャーチル首相は、一九四四年九月のハイドパーク会談での秘密メモランダムにおいて、原爆の攻撃目標をドイツから日本へと変更することに合意している。とはいえ、この文書の表現から判断するかぎり、彼らは実際に原子爆弾を使用することに関して少しばかり懸念していたのかもしれない。実際彼らが合意したメモには、「(原爆は)、慎重な考慮を行なったのちに、おそらく、日本人に対して使用されるかもしれない」(It might perhapes, after mature consideration, be used against the Japanese)と書かれている。
ハイドパーク会談の四日後、ルーズベルトは彼の科学担当主席顧問であるバネバー・ブッシュ、そしてある英国人の外交官とともに、原爆の取り扱いを検討していたが、その際、大統領は、原子爆弾を実際に投下すべきなのか、それとも、日本側の視察団を招き、米国内での原子爆弾の実験に立ち会わせ、それを恫喝策としても用いるべきなのかについて思いをめぐらした。だが、おそらく、大統領のこの発言は、このときの会議の本筋から見ればまったく重要性を欠いていたのであろう、また、この方策が、(開発の曉には敵国に対して現実に使用するという)マンハッタン計画のかねてよりの前提とまったく相反するものだったせいかもあるかもしれないが、ブッシュは、会議のメモをまとめる際に、このルーズベルトの発言を記載するのを忘れてしまっている。実際、翌日になって大統領の発言を思い出したブッシュは、異なるメモランダムにルーズベルトの発言を手短にをつけ加えている。
原子爆弾を敵国に対して使用するという考えは当時における支配的な前提だった。ルーズベルトが実際に核兵器を使用することに時折疑問を抱いたといっても、それは、四年間の間にわずかに二回である。原子爆弾の開発計画のことを知る大統領側近たちの全ては、それが間違いなく現実に使用されると考えていた。実際、彼らがまとめたメモランダムには、「使用された後には」、「使用された時点で」という表現はあっても、「もし使用されたら」という表現は一つとして存在しない。そして、一九四四年の半ばまでには、彼らのほとんどは、日本が標的であるとほぼ確信するようになっていた。
原子爆弾は、合法的な兵器として考えられていたし、この認識は、一九四四年九月に、マンハッタン計画のリーダー役だったレスリー・グローブス少将が、空軍に千七百五十名からなる五〇九混成部隊の編成を命じ、部隊が投下訓練を開始したことによって、官僚機構のなかでも事実上確認されたといえよう。
原子爆弾を日本に対して使用するという前提はきわめて支配的なもので、ドイツ降伏後の段階で、この前提に疑問を発した高官は、陸軍次官のロバート・パターソンただ一人だった。彼自身は、一九四五年の五月八日のドイツ降伏によって、日本への原爆投下計画にも変更が生じるかもしれないと考えたが、現実にはそうした変更がなされることはなかった。
<使用するという前提>
議会の承認も得ずに、・・・、ほぼ二十億ドルものお金をつぎ込んだ計画を政治的に正当化するには、それを実際に使用する以外に手はなかった
約二十億ドルもの費用をつぎ込んだマンハッタン計画だったが、これに関して議会はほとんど言っていいほど知らされていなかった。信頼できる共和党員と目されていたヘンリー・スチムソン陸軍長官、そして、スチムソン同様に尊敬されていたジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は、ごく一部の議員に計画の存在を話した。そして彼らは、主要な歳出委員会のほとんどのメンバーを含む、他の議員たちに計画の存在を悟られることなく、必要とされるコストを軍の予算に流し込んだのである。大統領府と立法府におけるほんの一握りの人々によって合意された国益をめぐる共通認識をもとに、彼らは、暗黙のうちに、通常の歳出プロセスを無視した行動をとったわけである。
一九四四年三月、当時、議会の特別調査員会の委員長職にあったある民主党の上院議員が、大統領府が膨大なコストを要するプロジェクトに従事していることを暴き出そうと試みるが、この際、スチムソン長官は、その人物のことを日記に、「厄介でまったく信用できない人物。 ・・・きわめてスムースな口調で語るくせに、その行動は下品だ」とこき下ろしている。この人物とは、誰あろう、ハリー・トルーマン上院議員のことである。マーシャルは、この計画に関する調査を止めるようにトルーマンを説得し、結局彼は、一九四五年の四月十二日に突然大統領に就任するまでは、この計画が何らかの新型爆弾に関するものであるということ以上の事実は知らなかったのである。
一九四五年初め、当時、ルーズベルトの国内問題担当の「大統領名代」(assistant president)のごとき役割を果たしていた抜け目のない民主党の政治家、ジェームス・バーンズは、マンハッタン計画が無用の長物になりはしないかと懸念し始めた。彼は、大統領に「もしこの計画が失敗に終われば、情け容赦のない調査が行なわれ、厳しく批判されることになるだろう」と警告した。だが、こうしたバーンズの懸念も、スチムソンとマーシャルがまとめたレポートによって払拭されることになる。この軍がまとめた極秘特別レポートは、状況を、幾分誇張しながら、次のように説明していた。「もし計画が成功すれば、調査が行なわれることあり得ないし、もし失敗したとしても、(計画をだれも知らない以上)たいした調査はできない」と。
もしルーズベルトが死なずに(最終的な投下決定の最高責任者だったとすれば)、そうした国内政治上の圧力は、、敵に対して原子爆弾を使用するという彼がすでに決定していた方向性や前提をさらに強化したはずである。議会の承認も得ずに、そうでなければ、他の軍事プロジェクトにまわしてより有効に利用できていた可能性のある希少な資源を一カ所に集め、しかも、ほぼ二十億ドルものお金をつぎ込んだ計画を政治的に正当化するには、それを実際に使用する以外に手はなかったはずである。米国は科学者をそもそも信用しないお国柄であり、それが、原子爆弾の使用という形で劇的に誇示されなかったとすれば、マンハッタン計画は膨大な無駄とみなされていたであろう。
マンハッタン計画を引き継ぎ、マーシャルとスチムソンを信頼していた(新大統領の)トルーマンは、そうした政治的プレッシャーにさらに弱い立場にあった。結局、新大統領も、ルーズベルト同様に、原子爆弾は使用されるべきだし、現実に使用されるだろうという前提を疑うことなく受け入れたのである。トルーマンは、自分が大統領になる前にすでに設定されていた前提に疑問をいだくことはなかったし、すでに動き始めていた(プロジェクトの持つ)機構的な勢いは、こうしたトルーマンの姿勢を強化する作用をもった。そして、ルーズベルト政権からほぼそのまま引き継いだ彼の顧問たちも、同様の信念を抱いていたのである。
<何を攻撃目標とするのか>
敵国の市民であれば大量殺戮さえもむしろ好ましいとさえ考えるような、新たな道徳(倫理的)価値観のもと、投下目標選定委員会は、原子爆弾の投下目標として、「直径三マイル以内に人口密集地帯がある大都市部」を選ぶことに合意した
原子爆弾計画をめぐる主導権を維持したいと考えていたグローブス少将は、一九四五年の春の初めに、新型兵器の投下目標の選定の任にあたる許可をマーシャルから得た。グローブスと彼の側近たちは、それが、おそらくは、二千五百機の爆撃機が同時に通常爆弾を投下した場合とほぼ同じ威力を持つ、まったく新たな破壊性をもつ兵器であることをかねてより理解していた。彼らは、この爆弾は「地面よりもかなり高い地点で爆発し、その爆風によって物的ダメージがもたらされる。(したがって、たとえ)、それが最低限の効率でしか爆発しなかった場合でも、可能な限り多くの建築物(住居や工場)を修復不能なまでに破壊することができる」と想定していた。
四月二十七日、グローブス、ローリス・ノースタッドをはじめとする空軍関係者、さらには優れた数学者であるジョン・ノイマンを含む科学者よって構成される投下目標選定委員会は最初の会議を行ない、日本のどこに、どのようにしてこの新型爆弾を投下すべきかを検討した。当時、原爆が完成するのは四五年の夏と考えられていたが、たとえ日本の夏の気象状況が爆弾の投下には必ずしも好ましくないとしても、彼らはこの切り札を無駄遣いしてはならぬと考え、レーダーではなく、目で確認して爆弾を投下することを決定した。
原爆の投下に適切な目標が数多くが存在したわけではなかった。空軍はすでの「石ころの一つも残さぬようにという・・・大きな目標の下に、東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、八幡、長崎を組織的に爆撃していた。・・・空軍は、日本の主要な都市を廃墟同然とすることを目的とする作戦に従事し・・・既存の計画では、東京そのものを吹き飛ばすこと(to bomb the hell out of Tokyo) 」になっていた」のである。目標選定委員会も当然この事実を理解していた。
一九四五年初頭までには、第二次世界大戦、特に太平洋での戦闘は、文字どおりの全面戦争に突入していた。すでに、ドレスデンに対する大規模な空爆の先例が存在したことは、空軍が、米国市民の支持のもとで、意図的に日本の民間人を大規模に殺戮することに道を開いていたといえよう。非戦闘員を巻き込まないという当初の道徳観も、熾烈な戦闘という環境のもとで瓦解していった。三月九日から一〇日にかけて実施された、東京への空爆作戦では、約八万人の民間人が犠牲になった。米国のB-29爆撃機は、手のつけようない大火災を起こそうと、東京の人口密集地帯に焼夷弾を投下したのである。たしかに、(市民を巻き込んだ形での)このような新たな戦争形態をとるのは、ヨーロッパにおいてよりも日本においてのほうが心理的にやりやすかったかもしれない。なぜなら、米国市民とその指導者の多くにとって、日本人は「黄色い人間以下の存在」(yellow subhumans)のように思えたからである。
敵国の市民であれば大量殺戮さえもむしろ好ましいとさえ考えるような、新たな道徳(倫理的)価値観のもと、投下目標選定委員会は、原子爆弾の投下目標として、「直径三マイル以内に人口密集地帯がある大都市部」を選ぶことに合意した。四月二十七日の会議では、「第二十一爆撃編隊の優先攻撃目標にリストアップされておらず、いまだ手つかずの状態にあるという点では日本最大の都市である」広島、「鉄鋼産業で有名な」八幡、横浜、そして、「もはや現実的には爆撃し尽くされ、燃え尽きて・・皇居以外は瓦礫の山と化してしまっている可能性のある」東京という、四つの都市に的を絞った議論が行なわれ、さらに、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保に関しても、今後さらに真剣に検討していくことを決定した。
投下目標都市の選定要素は、一つには、爆弾がどのように機能するか、つまり、爆風、熱風、放射能がどのようなバランスで広がりをみせるかだった。五月十一日と十二日の両日に渡って行なわれた二回目の会議において、ロス・アラモス研究所の所長を務めていた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、(長崎型)原子爆弾に使用されている物質(プルトニウム)だけでも十億人を殺せるほどに有害なもので、爆弾はこれに加え、致死的な放射能を発すると強調した。空中で爆発した際、「プルトニウム、あるいは、放射性物質のほとんどは投下地点およびその近隣地域の大気中に浮游することになると考えられるが、・・・当然(投下地点)にいる被爆した人間にも影響を与えることになる」。
だが、ほとんどの放射性物質がどうなるかは分からない」とオッペンハイマーは認めている。「爆発の起きた場所の上空に雲があれば、放射性物質は数時間にわたって空気中に漂っていることになるかもしれないし、爆発の段階で雨がふっていたり、湿度が高くその後雨になるような場合には、放射能は投下目標地域の地表に降りてゆくことになる」。オッペンハイマー・レポートは、投下地域の人口のほとんどが死亡するのか、あるいはその一部だけが死亡することになるのかについては明確にしていない。この点に関して十分な文書が残されているわけではないが、この問題を詳細に検討しようとした目標選定委員会のメンバーは一人としていなかった。おそらく彼らは、放射能が降り注ぐ前に、爆風によってほとんどの人々が犠牲になると考えていたのかもしれない。
彼らは、目標選定の過程で、東京の皇居を攻撃目標にすることも検討し、「われわれは皇居を攻撃目標とすることを推薦すべきではないという点で合意しているが、もし皇居を攻撃するとすれば、その決定は、軍事政策の責任当局によってなされるべきである」と記している。その後彼らは、皇居を原爆の攻撃目標とすることの効率性についての情報収集を行なうことを決定している。
目標選定委員会は、京都、広島、横浜、小倉という四つの都市を主要な攻撃目標として選び出し、予備のために第五の候補地として、テニアン基地の第五〇九編隊からみれば、これらの都市よりもさらに遠隔に位置する新潟を選んでいた。日本の古都で多くの寺院が存在し、百万の人口をもつ京都は、もっとも魅力的な投下目標と考えられていた。委員会の会議録は、「心理的側面から見ても、京都は日本の知性の中心地であり、それだけに、人々が原子爆弾のインパクトをより的確に理解するという利点がある」と記している。つまり、彼らは、知識人と目されている京都の人であれば、爆撃を生きのび、惨劇を目撃した彼らの証言を、他の地域の日本人が信用する可能性が高いと考えたのである。
目標選定委員会は、原子爆弾が恐怖の兵器として認識されることを最重要と考えていた。彼らは、「日本に対して最大限の心理的インパクトを与える」とともに、米国がまったく新たな力を保有したことを、世界、特にソビエトに認識させるような形で使用されるべきだと強調した。膨大な人的犠牲と破壊を前にすれば、日本人は恐怖心を抱くだけでなく、降伏を求めるようになると予想されるし、さらに「ボーナス」(おまけ)として他の諸国、とくにソビエトを威圧することにもなる。つまり、(原爆の投下は)、戦争の終結を早めるとともにに、戦後世界の構築をも助けると考えられていたのである。
二週間後の五月二十八日に開かれた第三回会議の頃までには、 彼らは明確に目標を決めていた。彼らは、京都、広島、新潟の順で候補地を特定し、各都市の中心地を投下目標とすることを決定した。委員会は、(日本の)工業地帯は小規模で、各都市の端のほうに分散して存在するため、攻撃目標としてはふさわしくないと結論づけた。彼らはまた、爆弾の投下が正確なものとはなりえず、目標から最大五分の一マイルの誤差が生じる可能性があることを認識し、原爆がその威力を見せつけ、無駄にならないように配慮すべきだと考えた。
委員会は、(決定がなされた以上)、原子爆弾による攻撃用にとっておくために、いずれ、これら三つの都市は米軍の通常攻撃の対象からはずされることになるだろうと考えていた。しかし、空軍側は、「現在の空爆作戦の実施現状から考えて、一九四六年一月一日までには日本に対する戦略爆撃を完全に終了する可能性があり、原子爆弾の投下目標を探し出すのは困難かもしれない」と委員会に伝えている。つまり、すでに日本は相当規模爆撃しつくされていたのである。
<どのように使用するか>
暫定委員会は、(戦闘をめぐる旧来の道徳的価値を踏まえて)軍事目標への投下に限定したわけでも、(新たに形成されつつあった道徳・倫理 価値を受け入れて)民間人をターゲットに限定したわけでもなかった
一九四五年五月二十八日、原爆政策をめぐって最近設立された暫定委員会に対してアドバイスを行なう科学部会のメンバーでノーベル物理学賞の受賞者でもあるアーサー・コンプトンは、原子爆弾をいかに使用するかについての道徳、政治上の問題提起を行なった。「原子爆弾の使用は、歴史上先例のない(瞬時にしての)大量殺戮という問題を引き起こすことになる。また、人体に有害な放射能を投下地点の上空にまき散らす可能性もある。本質的に、新型爆弾の・・・使用は、単なる毒ガスの使用をはるかに上回る深刻な問題を引き起こすことになる」と。
コンプトンの懸念に(多くの人は関心を示さなかったが)、マーシャルはこれを真剣に受けとめ、翌日の五月二十九日に、スチムソン長官に対して、米国はこの兵器を最初から民間人を標的として投下するのではなく、まず最初に軍事施設(おそらくは海軍基地)に対して使用し、その後、市民が十分な時間的余裕をもって避難できるような事前警告を行なった後に、大規模な工業地帯に対して使用すべきかもしれないと語った。マーシャルは、「新型兵器の用い方を誤れば、(米国は)汚名を被ることになる」と懸念したのである。
バージニアの陸軍士官学校を卒業し、軍人として教育されたマーシャルは、意図的な民間人の殺害を行なわないという旧来の軍隊の規律との間で悩んでいたのである。科学者としてのコンプトン、軍人としてのマーシャルの懸念は、民間人を戦闘から切り放すという それまでの価値に基づくものだったが、こうした旧来の価値は、ことの火急性をめぐる逼迫感、人間相手に原爆を使用したいとする願望、そして、ワシントンの政策決定中枢へのラインを持つ人々が、旧来の道徳的価値を維持すようにと強く働きかけることに関して、気乗りがしなかったか、あるいは、そうした能力を持っていなかったため、次第に力を失っていった。
一九四五年五月三十一日、スチムソン、ブッシュ、ジェームス・コナント・ハーバード大学長、物理学者のカール・コンプトン、新たに国務長官に指名されたジェームス・バーンズ(正式の任命は七月)、その他の有力者によって構成される暫定委員会は、原子爆弾をめぐる検討会を行なった。会議の冒頭において、民間人を対象にした大規模な空爆作戦に心を痛めていた長老のスチムソン陸軍長官は、原子爆弾のことを、「世界と人間の新たな関係」を具現するものであり、「この発見は、コペルニクスの(地動説)や(ニュートンの)重力の法則の発見に匹敵するもので、人間生活への(現実的)影響という点では、それらよりもはるかに重要なものである」と語った。
この会議が行なわれたのは、アラモゴードで最初の核実験が行なわれる六週間前のことで、彼らも、この新兵器が現実にどのような威力をもつのかについては確信がもてずにいた。オッペンハイマーは、暫定委員会のメンバーに対して、「原子爆弾は、TNT火薬二千トンから二万トンに匹敵する破壊力を持っており、その視覚的な効果もすさまじく、爆発の際には、上空一万から二万フィートにも達する閃光がたちのぼることになろう」と説明した。さらに彼は、「ニュートロン効果(放射能)は、少なくとも(爆発地点から)半径三分の二マイルにいる人間の生命を脅かすだろう」と指摘し、その犠牲者を二万人と推定した。
委員会の議事録によれば、暫定委員会は、「多様な形態の投下目標と、それぞれの爆発の効果」について議論を行なった結果、委員会における「一般的な合意が存在する」として、スチムソンが次のような結論を語ったと記録している。「われわれは日本側に対して事前に警告を与えてはならない。(そして)市街地を集中的に攻撃してはならない。(とはいえ)、可能な限り多くの市民に対して衝撃的なインパクトを与えるような形で(原爆を使用すべきである)。コナント博士の提案を受けて、スチムソンはもっとも好ましいターゲットが、労働者の家に取り囲まれた形で存在し、膨大な数の労働者が働いている兵器生産工場であることに合意した」と。
原子爆弾は現実に使用するために開発され、開発プロジェクトにはすでに二十億ドルものコストが投入されていたし、・・また、原爆を使用すれば、ソビエトを威圧することにもなり、戦後世界において彼らを扱いやすくなると考えられていた
スチムソンの指導のもと、暫定委員会は、(民間人が犠牲になるような)恐怖の爆撃を、幾分気後れしながらも、実際には承認した。彼らは、マーシャルが提案したように(戦闘をめぐる旧来の道徳的価値を踏まえて)軍事目標への投下に限定したわけでも、(新たに形成されつつあった道徳・倫理 価値を受け入れて)民間人をターゲットに限定したわけでもなかった。彼らは、(民間人が犠牲になるような)恐怖の爆撃の実施を、それを明確に認めることなく決定したのである。委員会のメンバーのすべては、たとえ昼間に攻撃が行なわれるとしても、「労働者が生活する家」には女性、子供はもちろん、労働者の一部が(民間人として)いる可能性があることを認識していた。
いつ、どのようにして、非軍事的デモンストレーションを通じた原子爆弾の威力の誇示という概念が誕生したのか、それが、委員会の午前、午後の会議だったのか、あるいは、昼食中、それとも、その全てに時間における関心事だったのか、メンバーたちの記憶はまちまちである。原子爆弾をどのような形で使用するかを検討するのは、スチムソンの懸案ではなかったし、暫定委員会に課せられた任務の一部だったわけでもなかった。
だが、スチムソンは、一時的だったにせよ、非軍事デモンストレーションという発想に関心を示したようである。しかし、委員会は、こうした方策を即座に拒否した。非軍事的なデモンストレーションという方策は、さまざまな理由であまりにリスクが大きすぎたからである。原子爆弾がうまく爆発しないかもしれないし、日本の空軍が爆撃機の飛来を邪魔しようとするかもしれなかった。また、(そうした方法で)原子爆弾の(威力を誇示したとしても)、日本の軍国主義者が強硬姿勢を崩さぬ可能性もあったし、落とすと予告した地点に、日本側が、日本国内に抑留されている連合国の捕虜を集める危険もあった。
五月三十一日の議論は、日本に対してどのように原子爆弾を使用するかに集中した。一時的とはいえメンバーのなかの一部には、同じ都市に複数の原子爆弾を同時に投下するという考えを考慮する者もいたが、グローブスは、一つには、そうしたやり方では、「効果を見極めるという点で、(原爆攻撃と)通常の空爆作戦との区別が付けにくくなるとして」この考えに反対した。
他のメンバー同様に、グローブスも、一機の爆撃機による一発の原子爆弾だけでも、膨大な数の人々を殺す劇的な破壊力があると信じていた。たしかに、空軍にしてみれば、膨大な数の日本人を空爆によって殺戮するのは何も目新しいことではなかったかもしれない。だが、原子爆弾の投下という手段は、(瞬時による破壊・殺戮)という点でまったく新たなものだった。米国側が八月上旬に発した声明において強調したように、新型兵器を使用すれば、日本の都市への更なる核攻撃が行なわれる可能性、つまり、「破壊の雨」が継続されることに対する(日本側も懸念も高まる)はずだった。
暫定委員会の会議から二週間後の七月十六日、ドイツから亡命してきた物理学者のジェームス・フランク、レオ・シラードをはじめとするシカゴの研究所のメンバーの一部が、原爆を警告なしで日本に使用することをめぐる道徳上・政治上の問題を提起したのを受けて、四人のメンバーからなる科学問題特別諮問委員会が、非軍事的なデモンストレーションを通じた恫喝策という考えを検討したが、委員会は最終的にこれを却下した。この委員会は、物理学者のアーサー・コンプトン、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、アーネスト・ローレンスをメンバーとしていた。あるレポートによれば、非軍事的デモンストレーションという方策を最後まで諦めようとしなかったのは、ローレンスだったそうである。
当時は他の三人とまだ論争状態になかった一九五四年、オッペンハイマーは当時をふりかえって、週末に開かれる委員会のせわしい会議において、非軍事的なデモンストレーションという方策を討議することが特に重要だったわけではないし、当然、委員会にとって大きな関心ごとだったわけでもない、と述べている。六月十六日、四人の科学者たちは、「われわれには、技術的(非軍事的)なデモンストレーションで戦争が終結するとは考えられない。直接的な軍事使用以外に、受け入れられる他の選択肢は存在しないと考える」と結論した。
だが、当時、この科学諮問委員会のメンバーたちは、日本の状況、つまり、日本の軍国主義者の国内での力、一部の勢力が交渉による和平を密かに模索していたこと、さらには、九州上陸作戦の日時や、その段階では実験されていなかった原子爆弾の威力などについてほとんど知らなかった(委員会のメンバーの一部は、後に不承不承この事実を認めている)。オッペンハイマー自身は後に、「われわれは軍事状況に関してはあまり知らなかった」と認めている。
とはいえ、科学者たちが実際とは異なる提案を行なっていたにせよ、現実に取られたコースは覆すのは不可能だったと思われる。原子爆弾は現実に使用するために開発され、開発プロジェクトにはすでに二十億ドルものコストが投入されていた。さらに。トルーマンとその主要な政治顧問だったバーンズは、原爆の使用を回避したいとは考えていなかったし、スチムソンにしても同様だった。これ以外にも、彼らが原爆を現実に使用したいと考える理由が存在した。彼らは、原爆の使用はソビエトをも威圧することになり、戦後世界においてソビエトを扱いやすくできると考えたのである。
スチムソンは、トルーマンにあてた四月二十五日付のメモでこの点を強調している。「この兵器をいかに適切に使用するかという問題が解決すれば、世界の平和とわれわれの文明を守る方向へと世界を導く機会を手にできる」と。一九四五年の春から夏にかけて、スチムソンの頭につねにあったのは、原子爆弾のこと、そして、それがソビエトとの関係にどのような影響を与えるかだった。 そして、トルーマンとバーンズも、おそらくは、こうしたスチムソンの影響もあって、原爆を通じて(ソビエトを牽制するという)考えを重視するようになっていた。
<民間人を犠牲者にすることへの懸念>
「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」
一九四五年、空軍の爆撃によって数十万人の日本の民間人が犠牲者となっていたが、この作戦の攻撃の指揮をとっていたスチムソンはこの現実に心を痛めていた。 通常彼は、このおぞましい現実を直視するのではなく、空軍は(軍事施設をターゲットとする)正確な爆撃を行なっており、それが時に正確さを欠いてしまうこともあると理解するようにしていた。非戦闘員の意図的な殺害を認めない旧来の道徳観と、文字どおりの全面戦争を重視する新たな価値観の間を揺れ動いていたスチムソンではあったが、彼は、現実を正面から捉えようとも、また、完全に現実から目を逸らそうともしなかった。 彼は偽善者ではなかったが、曖昧さの中に身をおく、悩める人だった。
スチムソンは六月六日に、この問題をトルーマンに話している。スチムソンは、空軍による大規模な空爆作戦を懸念していることを強調しながらも、それを緩和させるのは現実的に困難だと考えていた。スチムソンは日記に次のように記している。「私は、現在のような戦争のあり方について二つの理由から懸念していると彼(トルーマン)に語った。第一に、私は、米国がヒトラーをも上回る残虐行為に手を染めたという汚名をきせられたくないと考えている。そして、第二に、(原子爆弾が完成する)まえに、空軍が日本を完全に爆撃し尽くすとすれば、新兵器の威力をみせつけるのに妥当な環境(標的)を失ってしまうかもしれないと少しばかり懸念している」。スチムソンによれば、トルーマンは、笑いながら、「わかった」と語ったという。
旧来の道徳的価値と新型兵器をもつ利益を確保したいという考えの間で揺れ動きながらも、スチムソンは、これと比べれば小さな問題、つまり、グルーブスが作成した爆撃リストから京都をはずすことに関しては毅然たる態度をとった。とはいえ、スチムソンが京都市民の命を救おうと試みたわけではなく、彼は京都の文化的遺産を救おうとしただけだった。とうのも、彼は、京都の文化遺産を破壊してしまえば、日本は米国に敵意を抱き、ソビエトの側につこうとするとかもしれないと考えたのである。
スチムソンは七月二十四日の日記に次のように記している。「そうした野蛮な行為の結果(日本人が米国に対して抱く)敵意は、戦後において日本人が米国人と和解するのを長期的に不可能とし、むしろ、日本人はソビエトと和解してしまうかもしれない。つまり、(京都の文化財を攻撃目標とすることは)、ロシアが満州に侵攻した際に、日本を米国よりにするといるわれわれの政策が要求する環境を不可能にしてしまう」と。
トルーマンは、この件に関してスチムソンを支持し、私的な場において、原子爆弾は軍事目標に対してのみ使用されるべきだと主張した。だが、大統領が、原爆が投下されれば不可避的に数多くの民間人が犠牲になるという点から目を背けようとしていたのは明らかである。七月二十五日、ポツダムにおいてトルーマンは、アラモゴードの爆風によって膨大な破壊力が実証されたことを伝える熱を帯びたレポートを受け取り、その詳細を克明に日記に記している。(爆発によって)直径千二百フィートのクレーターができ、〇・五マイル離れた地点にあった鉄塔が破壊され、六マイル離れた所にいた人間が爆風で倒された。「われわれは世界の歴史においてもっとも恐るべき兵器を完成させた。これは、予言者のいう終末の火なのかもしれない」。
しかし、京都の代わりに、長崎と小倉という都市を明記した原子爆弾の投下目標の最終リストを承認する段階になると、 トルーマンの態度は微妙に変化していく。彼は日記に次のように記している。「私は、スチムソン陸軍長官に対して、(原爆の投下目標は)軍事施設、兵士、水兵であり、女性や子供ではないと語った。たとえジャップが、残忍かつ向こう見ずで、情け容赦がなく、しかも狂信的だとしても ・・・原爆が投下されるのは、純粋な軍事目標である」。トルーマンは、膨大な数の民間人が犠牲になることを知ってながら、それから目を背け、自己欺瞞的な態度をとっていたのかもしれない。
だが実際には、広島、長崎の双方とも「純粋な軍事ターゲット」などではなかった。にもかかわらず、実際に原爆が投下されるかなり前の段階でまとめられた、公的なプレス・リリースは、この問題をさらりとかわしている。例えば、広島のことは単に、「重要な日本の軍事基地」とされているのみである。だが、このプレス・リリースは、これらの都市が選ばれたのが、一つには、非戦闘員の犠牲を劇的に演出するためのものであることを知っていた人物によってまとめられていた。
八月十日、長崎への原子爆弾の投下の翌日、原爆による大量殺戮の規模の大きさと、日本側が条件付きの降伏を申し出ていることを理解していたトルーマンは、閣議において、これ以上、女性や子供を犠牲者にしたくないと語った。さらに原爆を投下すべきだという要求を退けたトルーマンは、もはや二度とこの兵器を使わずにすむようにと願った。二発の原子爆弾の投下によって、膨大な規模の犠牲者がでたことに胸を痛めたトルーマンは、民間人には(原子)爆弾を使用すべきではないという旧来の道徳的価値観 へと回帰しつつあったのである。だが一方で彼は、通常爆弾による都市への大規模攻撃の継続を認め、その結果、焼夷弾、その他の爆弾によって多くの人々が犠牲になった。八月十日から戦争が終わる十四日の四日間に、 延べ千機の爆撃機が出撃して都市を攻撃し、 日本が降伏を宣言した後も、一部では爆撃が行なわれた。これらの攻撃によって、一万五千人を超える日本人が 犠牲になったと推定されている。「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」とトルーマンは日記に記している。
<採用されなかった方策>
たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない。
八月十日以前の段階で、トルーマンと彼の側近たちが原爆の使用を回避しようと試みたことはなかった。事実、彼らは、非軍事的な形で原爆の威力を見せつけるという選択肢をあっさりと退けている。たしかに、広島に原爆が投下されて以降も、日本の軍指導層が徹底抗戦を主張していた以上、たとえ、非軍事的デモンストレーションを通じて原爆の威力を見せつけたとしても、日本が短期間のうちに降伏することはなかっただろう。いずれにせよ、米国の指導者たちは、無条件降伏を緩和させて、天皇制の維持(国体の護持)を認めるという方策、ソビエトの参戦を待つという方策、海上封鎖を行なった上で通常爆弾による都市攻撃を継続するという方策など、原爆投下に代わる他の選択肢を模索しようとはしなかった。
実際、トルーマンとバーンズは、無条件降伏の緩和によって、日本が短期間のうちに降伏するとは考えていなかった。彼らは、条件を緩和させれば、むしろ日本の軍部はさらなる妥協を求めて大胆になり、戦争が長期化すると考えていた。であればこそ、大統領とバーンズ国務長官は、国体の護持を認めて早期終結を図るべきだというスチムソンの提案をあっさりと退けたのである 。
同様に、米国の指導者のほとんどは、ソビエトの太平洋戦争への参戦が状況に大きな変化をもたらし、日本の降伏を大いに早めるとは考えていなかった。一般的に言って、米国の指導者は、ソビエトの参戦が、(大規模な米国側の犠牲者がでることが予想される)九州上陸作戦を回避する、つまり、その前に終戦に持ち込むための助けになればと考えていた程度だった。ソビエトの参戦は当初八月の中頃と考えられていたが、おそらくは広島への原爆投下という事態を受けてのことだろうが、ソビエトはスケジュールを繰り上げて八日には参戦してきた。こうしたソビエトの動きが、八月十四日という早い段階での日本側の降伏の受け入れに大きな影響を与えたのは間違いない。たとえ原子爆弾を投下していなくても、ソビエトの参戦によって、十一月前には日本は降伏していたかもしれない。(訳注:この論文における日付はすべて、米国の東部標準時間によるものである)。
米国の目的は、もし可能であれば、十一月一日に予定されている(九州への)上陸作戦 を何とか回避することだった。この七十六万七千人の兵力を投入しての上陸作戦が実施されれば、最初の三十日間で三万一千人の死傷者がでると予想され、最終的な犠牲者の数は二万五千人に達すると考えられていた。さらに米国の指導者たちは、一九四六年の三月に予定されていた、関東平野への第二次上陸作戦(コロネット作戦)を実施すれば、さらに一万五千の米兵が犠牲になると考え、これも何とか回避したいと考えていた。つまり、(戦後においてまことしやかな虚偽の主張が行なわれたが)、米国の指導者のなかで、一九四五年の春から夏の段階で、五十万の米国人(将兵)の命を救うために原爆を使用すべきだと考えていた者など一人としていなかったのである。
とはいえ、当時の愛国主義的な環境から考えて、日本本土への上陸作戦を実施した場合に犠牲になると思われる二万五千から四万の米国人の命を救うために、数多くの日本人を殺すことになる原子爆弾の使用を躊躇する者はいなかった。大胆な言い方をすれば、民間人を含めて日本人の命の重さは軽く見られており、多くの市民同様、米国の指導者の一部も、日本人を原子爆弾でこらしめるという考えに刺激を感じていたのかもしれない。
さらに、トルーマンとバーンズを始めとする米国の指導者たちは、彼らが原爆を使用せずに、しかも(相当規模の犠牲者が予想される)日本本土への上陸作戦が必要になるとすれば、それが国内政治上きわめて危険な状況を作り出すことを十分理解していた。もし米国の指導者たちが、原爆の使用を回避しようと望んだにせよ、犠牲になった米国将兵を家族にもち、悲しみにくれる両親や配偶者たちに同情した世論の怒りが自分たちに向けられることを恐れるあまり、結局彼らは、日本への原爆投下を決定していたであろう。
米国政府のなかで、一、二発の原爆の投下で戦争を早急に終結に持ち込めると考えていたものは誰もいない。彼らは、少なくとも三発は使うつもりだったし、おそらくはそれ以上の数の原爆を使用する可能性もあった。そして、長崎に原爆が投下された翌日までは、政策決定者の頭の中には原爆と通常爆弾の間の区別は存在せず、その双方を用いた大規模爆撃を通じて相手を降伏させることこそが彼らの目的だった。原子爆弾と通常爆弾は、一方が他方に代わり得るものとしてではなく、相互補完的な存在と見なされていたのである。だが、通常爆弾だけによる大規模な爆撃をその後数カ月にわたって実施していた場合でも、おそらく数十万の日本人が犠牲になっていただろうし、日本が、十一月一日前に降伏を望むようになっていた可能性はある。
全般的に考えて、日本の天皇制維持の保障、ソビエトの参戦、通常爆弾による攻撃の継続など、(原爆投下に代わる)代替策の一部だけでも、かなりの確率で、本土侵攻計画を実施する前に戦争を終結に持ち込めていたはずである。たしかに、ルーズベルトが好んで使った表現を借りれば、そうなる証拠に関しては仮説だらけ(iffy)だったもしれないし、 (原爆に代わる)他の戦略の採用によって、日本の軍国主義者たちが強硬な立場を緩和させると自信を持って主張するものはいなかった。しかし、われわれは、こうした選択肢が模索されなかったこと、そして、最初の原子爆弾の投下、そしてそれ以上に二つ目の原爆の投下を回避するような試みがなされなかったことを悔やむべきであろう。
一発めの原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、八月九日に長崎に落とされた二発めの原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった。 長崎へ原爆が投下されたのは、そもそも空軍に対して「準備が整い次第」投下せよという命令が下されていたからであり、また、広島への原爆投下後も、ワシントンでは誰一人として、日本が近く降伏すると考えていなかったからである。当時の日本政府内の状況に関する現在入手可能な証拠、とくに天皇が長崎に原爆が投下される直前に和平を求める決意を固めていたことから判断しても、長崎への原爆投下は間違いなく回避できたはずである。これは、少なくとも三万五千人、あるいは、悪くすればその二倍の数の日本人と、数千人の朝鮮人が、長崎において無為に殺されてしまったことを意味する。
トルーマン政権の指導者たちが原爆の使用を回避しようと試みたことはなかった。彼らは、原爆を軍事的に使用すれば、ソビエトを牽制するという「大きなボーナス(おまけ)」を確保できると考えていた。バーンズは、(日本への原爆投下によって)、ソビエトを威圧し、とくに東ヨーロッパ問題をめぐる彼らの行動を「より御しやすく」できると語っている。ソビエトを牽制することが原爆を使用した主要な動機だったわけではないが、投下の決定を固定化させた強い要因の一つであることは確かである。
もし、トルーマンと彼の側近たちが、シカゴの一部の科学者たちのように、日本に対する原爆の使用によって、ソビエトが御しやすくなるどころか、むしろさらに頑なになることを予見できていれば、彼らも、日本に対する原爆使用という方策に疑問をもったかもしれない。しかし、米国の指導者たちは、原爆の使用は一方で、ソビエトの東ヨーロッパでの政策を緩和させることができると考えたため、彼らが原爆の使用という当初の意図に疑問をもつことはなかったのである。また、もし疑問をもったとしても、決定は現実にとられたものとおなじものになっていたかもしれない。つまるところ、原爆の使用は、ルーズベルトが設定し、トルーマンが躊躇することなく踏襲した前提が現実に実施されたことを意味する。広島への原爆投下は、トルーマンにとって、頭を悩ませる必要のない決定だったのである。
<なぜ投下され、何が問題だったのか>
広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、第二次大戦の戦闘を通じて、(戦闘をめぐる)旧来の道徳観の再定義がなされたためであり、これが、その後における核時代の恐怖の源泉となっていく
米国人が原爆の投下は本当に必要で、望ましく、しかも道徳面での問題はなかったのだろうかと考え出したのは、政府の公文書が公開され、戦時中の敵意が薄れ、(問題をめぐる)感情が変化した戦後になってからだった。戦後に発表された、ウイリアム・レーヒ提督(大統領付幕僚長)、アイゼンハワー将軍など、戦争指導者たちの回顧録の出版とともに、日本に対する原爆の使用が妥当だったのかどうかをめぐって疑問ががもたれ始めるようになる。長崎への原爆投下後にトルーマンが時折主張したように、原爆の投下によって、日本本土への侵攻を行なっていれば失われていたはずの五十万の米国将兵の命を救えたという主張は誇張されており、救った可能性があるとしても、実際にはその数は五万程度だったということは、一九四五年六月、七月の時点での米国軍上層部のレポートから判断しても明らかであり、米国市民も次第にこの事実を認識するようになった。米国市民はまた、第二次世界大戦の戦闘、特に、民間人を標的とした大量殺戮がいかに残酷なものであったかも次第に理解するようになる。広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、第二次大戦の戦闘を通じて、(戦闘をめぐる)旧来の道徳観の再定義がなされたためであり、これが、その後における核時代の恐怖の源泉を提供していくことになる。
こうした道徳観の再定義が、ドイツによる六百万人ものユダヤ人の組織的殺戮、日本軍による南京大虐殺などに代表される、第二次世界大戦中の残虐行為を契機としているのは事実である。とはいえ、極端な残虐行為が旧枢軸国側によってなされたのは事実としても、当時の主要な国民国家のすべては、道徳的基準をめぐって分裂し、ときに彼らの指導者だけでなく、市民たちも(戦闘における新たな道徳観を)を是認していた。一九四五年までに、文字どおりの全面戦争の概念が定着するようになり、もはや(旧来の)道徳的な牽制要因はほとんど残されていなかったのである。敵の軍事勢力と民間人を区別しようとしたフランクリン・ルーズベルトの崇高な配慮さえも、次第に形骸化してしまっていた。当時の新たな道徳的価値観の下では、それがいかなる国であれ、原爆を手にした場合には、彼らはそれを敵に対して使用していたであろう。実際、スターリンだけでなく、英国の指導者も、米国による原爆の使用を問題にしようとはしなかった(訳注:原爆開発はソビエト側には知らされていなかったが、ポツダム会談において、トルーマンは、その事実をそれとなくスターリンに伝えている)。ましてや、それがドイツや日本の軍国主義者であれば、間違いなく敵国の都市に原爆を投下していたはずである。当時の米国の道徳観が特異的に(退廃していた)わけではない。原爆を唯一開発できたという点で、米国が技術的にみれ、例外的に進んだ状況にあっただけである。原爆をもっていたのが米国だけだったからこそ、それを使用したのは米国だけだったのである。
だが、こうした歴史的な文脈が存在したからといって、なにも米国市民やその他の人々が(原爆の投下という)行為を肯定的に認めてよいということにはならない。大切なのは、一九四五年の広島への原爆投下の前後において、その使用に反対するものが、(こうした歴史的文脈のゆえに)きわめて希だったことを認めることである。実際、当時において、なぜ米国が日本に対して原爆を使用したかを問いかける人々は ごく少数だったのである。だが、もし原爆が使用されていなければ、怒りに満ちた米国人を含むより多くの人々が、なぜ使用しなかったのかとトルーマン政権を批判していたのもまた事実であろう●
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