<安保条約は日本に恩恵をもたらしているか> 岸信介首相とクリスチャン・ハーター国務長官が、日米間の歴史的な安全保障条約に調印したのは1960年1月19日。この条約を通じて、日本が攻撃された場合にはアメリカが日本の防衛を助けること、一方、日本は駐留米軍に国内の基地と港を提供することが合意された。
ベトナム戦争、ソビエトの崩壊、北朝鮮の核武装、中国の台頭など、この半世紀の間に国際環境は大きく変化した。そもそも日米の歴史と文化は大きく違っていたし、両国は貿易紛争や感情論をぶつけ合うような対立局面も経験した。それでも、日米間の安全保障合意は手堅く維持されてきた。実際、日米の安全保障合意は、1648年のウェストファリア条約以降のいかなる同盟関係と比べても、長期にわたって維持されてきた。
安保条約が、日本の安全を保障し、東アジアでアメリカが大きな影響力を維持するのに大きな貢献をしたことを考えれば、日米同盟の今後は明るいと結論づけることもできる。だが、2009年8月の総選挙で、民主党(DPJ)が、ほぼ54年にわたって政権党の座を維持してきた自民党に対して地滑り的な勝利を収めると、「安保条約がもたらす恩恵はいまもそのコストを上回っているのか」という声が聞かれるようになった。
<旧安保からの安保改訂> 1960年の安保条約のベースとされた1952年の旧日米安保条約が発効した当時、日米双方はこの合意をきわめて重要な取引(グランド・バーゲン)とみなしていた。日本は、条約を通じて独立を回復し、東アジアでもっとも大きなパワーを持つ国による安全保障面での後ろ盾をローコストで手に入れただけでなく、日本製品の輸出市場も確保した。
大規模な防衛力を整備する必要性から解放された日本は、経済復興に専念し、一方、アメリカも、西太平洋への戦力展開の拠点を手に入れた。日本における基地と駐留米軍の存在は、韓国や台湾への条約上のコミットメントを果たし、ソビエトと共産中国の封じ込めを遂行する上でのアメリカの信頼性を大いに高めた。
だが二国間での不満もくすぶり続けた。とくに、日本側の不満は大きかった。旧安保条約は戦勝国とまだ主権を回復していない占領下の政府との間で交渉された合意だった。外国軍の部隊駐留を認めた経験のない日本政府は、国内の2800を越える基地に26万規模の米軍の永続的プレゼンスを受け入れなければならなくなった。駐留部隊の実務的なアレンジについては、国会の承認を必要としない行政協定(地位協定)に委ねられた。これによって、アメリカは日本国内の大規模な混乱を鎮圧する権利(内乱条項)も手にした。一方、日本の指導者たちは、自らの意向に反して、蒋介石の台湾を唯一の中国政府として受け入れることを強要された。かたや、アメリ政府は日本の防衛への明確なコミットメントを示すことなく、駐留米軍を東アジア地域に意のままに展開する権利を手にした。
アメリカは次第に「同盟」という言葉を曖昧に用いるようになった。マッカーサー将軍が日本に押しつけた1947年の憲法第9条では、日本は「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定されている。アメリカ政府は程なくこの表現を盛り込んだことを後悔するようになった。将来においてアメリカが関与する戦争に対して、日本が与(くみ)しないことの口実とされるかもれしれないと考えるようになったからだ。
実際、日本の吉田茂首相は、再軍備の要請に抵抗する根拠をこの条文のなかに見いだした。日本が攻撃された場合には、アメリカがその防衛へコミットすることが(曖昧ながらも)示されていたが、そこに、相互主義的な日本の義務は明記されていなかった。さらに、日本側は集団的自衛権の行使は憲法で禁じられており、作戦行動中の米軍のために自衛隊の部隊や船を派遣することはできない、と言うことができたし、現にそう主張した。
1957年までに復興を遂げ、経済的繁栄を手にしつつあった日本では、新たにナショナリズムも高まっていた。大学生、左派系知識人、労働組合の指導者などの戦後世代は、安保条約に内在する不平等性を問題にし始めた。駐留米軍の兵士たちによる犯罪や事故も大きな問題として取り上げられるようになり、安保条約ゆえに、(アメリカと)中国、北朝鮮、ソビエトとの戦争に日本は巻き込まれる恐れがあるという見方も表明され始めた。
岸は安保条約の内容をより公正なものへと見直すことに政治生命を賭けた。3年に及んだ困難な交渉を経て、10年間を期限とする安保条約の改訂が実現した。アメリカは、日本が攻撃された場合の防衛に明確にコミットし、日本の基地を作戦行動の拠点として利用する場合の部隊や装備の移動については、事前協議の対象とすることが合意された。
安保改訂によって日本の立場は改善されたが、国内の左派勢力その他は、条約の批准プロセスを、日米同盟システム全体を否定するために巧みに利用した。岸は左派の批判勢力と4カ月にわたって攻防を繰り広げ、国会も紛糾した。数千名のデモ隊が街頭を練り歩く事態となった。1960年5月19日、岸は条約批准のために衆議院での強行採決を行った。国会内での座り込み戦術に出て、静粛を求める衆議院議長の声をヤジで妨害する社会党の反対勢力を排除するために警官隊も導入した。
だが、このやり方は逆効果だった。強行採決によってデモ隊の規模も抗議行動も激しさを増し、このタイミングで予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日はキャンセルされた。最終的に安保改訂は国会で承認され、6月23日に条約は正式に批准された。だが、岸は同じ日に辞任を発表する。支配的な影響力をもっていた保守政党の自民党も、戦争と平和という問題をめぐっては反体制勢力に自分の意思を強要できないことを痛感することになる。
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George
R. Packard 米日財団会長。ライシャワー駐日大使の特別補佐官、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院長などを経て現職。最近の著書に、『ライシャワーの昭和史』(
講談社、2009年)がある。 (初出はフォーリン・アフェアーズ リポート2010年3月号)
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