<ポスト冷戦モデルへの脱皮> 長期にわたって国会議員のポストにあり、政界の黒幕的存在である小沢一郎は、二年前に『日本改造計画』という本を出版したが、その主な目的は、世界でより大きな役割を果たすことへの日本側のためらいを払拭することにあった。当時、自民党の指導者の一人だった小沢は、ワシントンからの度重なる要請にもかかわらず、湾岸戦争で米国主導型の多国籍軍を現地で直接的に支援するのを頑なに拒否する日本政府の姿勢に苛立ちを感じていた。彼はこの対応ぶりを、日本の敗北――「決定を下さぬ政治」(politics
of indecision)が支配的で、政治に明確な中枢が存在しないことによってもたらされた敗北――と呼んだ。日本の政治家たちが、指針や方向性を欠いた戦後システムを見直さないかぎり、この国もまた「富だけで国家を維持できるという信念を抱き、結局は衰退の道をたどった」古代カルタゴと同じ道をたどることになる、と小沢は指摘した。
以来、日本政府のリーダーシップの欠如に対する小沢の批判はいっそう鋭さを増している。去る一月に五五〇〇名の人々が犠牲になった阪神大震災(への政府の対応)は、(日本政治におけるリーダーシップ不在を立証するもっとも顕著で悲劇的な例だろう。自らの権限に自信をもてぬ社会党出身の村山富市首相は明確な対応を打ち出せず、各省もまたバラバラに対応するのみで、そこに省庁間の協調は見られず、自衛隊も遅きに失した救援活動命令を漫然と待つだけだった。こうして阪神大震災は、湾岸戦争への対応にもまして、日本人に自国のシステムの麻痺ぶり強く認識させることになった。
(確実な効果が期待できるような)堅実な経済政策が採用されていないことも、もう一つの危機である。日本経済はすでにこの四年間にわたってほぼゼロ成長の状態にあり、円高ゆえに日本の産業は、これまでにないペースで海外へ生産拠点を移動させている。銀行は、ほぼ一兆ドルにも達するとみられる不良債権を抱え込んでいるが、これは日本のGDPのほぼ四分の一に匹敵する額である。いまや日本が旧来の日本株式会社の殻を脱ぎ捨て、規制緩和と市場開放を通じて消費者サイドの経済の構築を考えていく必要があるのは明らかだ。銀行問題の専門家のほとんどは、(困難な状況に陥っている)銀行を(政府の資金援助を通じて)救済すべきだと考えている。だが、こうした諸問題をめぐる政策上の変更を、強大な権限を持つとはいえ、とかく視野の狭い日本の官僚に期待するのは無理だろう。
これが、分裂以前の九三年の総選挙で敗戦を喫する前の自民党なら、その産業界や官僚との密接な関係のお陰で、経済問題の対応に必要なリーダーシップを発揮できたかもしれない。しかしいまや、この鉄のトライアングルも崩壊している。たしかに、相次ぐスキャンダルのために自民党への信頼が失墜したとはいえ、現在の村山内閣の最大のパートナーは自民党だ。しかし、自民党は一枚岩ではないし、遅くとも一九九七年の半ばまでに実施される衆議院選挙でどんな戦術をとるかに気を取られている。政治的中枢が存在しないため、いまや官僚たちは、これまで以上に自由な環境のもとで、米国との貿易問題、省益などをめぐって、視野の狭い個々のテーマを追求している。こうした状況下、より合理的な経済政策が実施されないことに業を煮やした大企業は、円高への対応と終身雇用を基盤とする、いまや足場のおぼつかぬ社会契約を維持するために自ら格闘することを余儀なくされている。
改革主義者の「ミスター・クリーン」こと細川護煕が、小沢一郎を軸とする自民党と袂をわかった勢力の力を借りて三八年ぶりに非自民政権を成立させた二年前と比べても、日本人の不安はさらに高まっている。細川政権が誕生して以後の驚くべき八ヵ月の間に、細川と小沢は、選挙法の改正、第二次世界大戦をめぐるほぼ全面的な謝罪、国内コメ市場の開放、そして規制緩和への第一歩を踏み出すなど、それまでの歴代政権がたくみに回避してきた諸問題に積極的に取り組んだ。細川の人気はかつてない高いレベルに達したものの、金融取り引きをめぐる疑惑が浮上するとともに退陣した。
今日、改革的アジェンダは凍結されているが、選挙民が改革路線の推進を望んでいるのはほぼ間違いない。たとえば、今年行なわれた東京・大阪での都知事・府知事選挙の勝者は、どちらもともとはテレビのパーソナリティだった人物で(その後、国会議員となり)、今回、反エスタブリッシュメント色の濃い選挙公約を掲げて知事選に出馬し、選挙を闘った最初の政治家たちだった。現在の村山政権は、小沢のいう「普通の国」を建設するのに必要とされる政治改革のペースをゆっくりとしたものにとどめているが、小沢が『日本改造計画』で二年前に提起した問題が
、いまやより切実な問題になっているのはほぼ明らかだ。
現在小沢は窮地に立たされているし、おそらくは彼は今後もずっと、窮地に立たされた改革者のままかもしれない。一九九一年の重い心臓発作は小沢の行動を依然として制約しているし、(旧)自民党のインサイダーを毛嫌いするマスコミが小沢を批判しつづけているため、彼の人気もいまや手痛い打撃を受けている。羽田政権の戦略立案を担った小沢だったが、九四年の六月に一連の戦略上のミスを犯して羽田政権は短命に終わり、結局は村山政権が誕生、小沢はその結果、初めて政治的主流からはずれ、野に下ることになる。彼は、決してまとまりがいいとはいえない元自民党議員で構成される新生党(その後、新進党)の統一を懸命に試みているが、議員の多くは復党を求める自民党側の申し出を前に動揺している。少なくともこの七月に実施された参議院選挙前まで――新進党が強力な集票力を見せつける以前――日本の政治評論家の大半は、小沢の時代はすでに終わったと考え、次の衆議院選挙でも自民党が勝利を収めるとみていた。
もし彼らの見方が正しいとしても、小沢は、冷戦モデルからの脱皮にむけた日本の努力の新局面を切り拓く、主要な役割を担った政治家として評価されるべきだろう。彼は日本が直面する問題を明確に指摘しただけでなく、分裂を策して古巣の自民党と袂をわかち、三八年間に及んだ自民党支配を連立政権の樹立をもって打ち破った立役者だった。彼の個人としての政治的将来はともかく、小沢は日本を変革させるというアイデアについての具体的な枠組みと流れを形成した人物なのである。
<明治を意識した小沢> 小沢は明治時代を強く意識し、自らを一八六七年に江戸幕府を倒した人物たちに重ね合わせて考えている。少年時代の小沢は慎み深く勉強熱心だった。彼は、明治的価値をもつ気丈な母親から、ピューリタン的な生活規範を重視する明治の価値観――慎み深さや、「男の子は泣くものではない」、「不平を言わず、言い訳をせず」といった価値――を教え込まれた。若き日の小沢は、徳川幕府を倒した人々に強く魅了された。いまでも彼は、その先達たちが世界へと目を向け、工業、教育、軍事、政治面で彼らがそこに見出した枠組みを導入した明治期が、日本の最善の時代だったと考えている。事実、小沢は著作の一章を、大久保利通や伊藤博文など明治期の指導者の華々しい業績の論考にあて、そこで熱っぽい議論を展開している。
たしかに小沢は、徳川幕府を倒し明治期に改革を断行した人物たちと、その資質の一部を共有している。小沢同様、明治期の改革者たちもエリートの特権階級で、その激しい改革志向は、現実的な経験や現状認識によって導かれていた。彼らは、仲間である当時の支配階級よりも、たとえば、西洋の軍事技術に遅れをとっていることが日本にとっていかに危険なことかについても、より状況をわきまえていた。ペリー提督の「黒船」は、そうした脅威のシンボルだった。小沢は日米貿易交渉の促進役となり、湾岸戦争をめぐっては、あえて火中の栗を拾う一か八かの論争を巻き起こしたが、彼のこうした洞察力は、明治の先達たちに比肩しうるものだったといえる。
冷戦の余波のなか小沢は、問題はシステムの老朽化にあると論じた。自民党の旧来の指導層は、米作農家の保護、あるいは憲法第九条の平和主義の慎重な維持など、特定の選挙民や利益団体の要望に縛られた視野の狭い問題に終始し、大所高所からの視点を失っていた。こうした状況下で発表され、大きな影響力をもった小沢の著作『日本改造計画』は、新たな政治や統治システムの導入の必要、とくに、政治家がより優れたリーダーシップを発揮する必要を強調した。
彼が提示した処方箋は米国人にとってはなじみ深いものだ。それは、健全で闊達な議論が行なわれる二大政党制、小選挙区制、決意に満ちた強い権限をもつ首相、地方自治体政府への抜本的な権限委譲、長時間労働からの労働者の保護、性・年齢による差別の撤廃、そして大幅な規制緩和だった。さらに彼は、海外への戦闘部隊の派遣を含む、国連の平和維持活動への支援策を実施することで、世界外交における日本の立場を強化すべきだと主張した。一言でいえば彼は、大国としての責任を引き受け、その質のよい生活レベルによって他の諸国の人々がうらやむような日本を作りたかったのだ。その目的は、世界中の人々がアメリカン・ドリームを夢みるのと同様に、彼らがジャパニーズ・ドリームに思いを馳せるような国家に日本をすることだ、と彼は指摘している。
日本国民は、小沢の提案を積極的に認めながらも、一方では懸念も抱き、複雑な感情でこれを受けとめている。彼の著作は実に七〇万部も売れ、読者たちは、日本の政治が現実にどのように機能しているかについての彼の率直な説明に魅了された。「政府自体、数多くの機構や利益によって分散化している」、たとえば、「すべてを調整し管理するような包括的な組織は存在せず……、通常日本政府の最高意思決定機関である閣議は、まったく中身のない組織だ」と彼は指摘した。これらの点を指摘する人々は他にもいるが、小沢ほどの政界での地位と経験をもつ人物がこの問題を指摘したことによって批判は事実と化し、改革主義志向の人物は、この点をためらうことなく引用できるようになった。
一方日本人は、機をみるに敏という言葉に特徴づけられる小沢の政治キャリアを熟知しているだけに、週当たり労働時間の短縮化提案を含む広範な社会的課題に、彼が本当にコミットしているのかどうか、確信がもてずにいる。結局のところ、小沢もまた紺の背広を着た典型的な仕事中毒で、タバコの煙だらけの永田町の料亭で密室会談を行なう政治家なのだ。細川元首相が国民を魅了した理由がそのカジュアルなスタイルや、テニスを楽しむようなライフ・スタイルにあったとはいえ、その時々のより広範な社会的課題に対していかに関わっていくかという点では、小沢の主張は、細川の半分程度の説得力しかもたないように思われる。信頼により値するのは、日本の指導者たちのリーダーシップを強化し、国連主導型の軍事行動に参加してでも、日本を世界の表舞台に押し上げようとする小沢の決意のほうだ。だが、こうした彼の野心は複雑な反応を呼んでいる。なぜなら日本人は、尊敬され自信に満ちた明治期の改革者よりも、権力を濫用し国家を戦争へと向かわせた一九三〇年代の権威主義的指導者のほうを、より鮮明に記憶しているからだ。
<田中角栄との出会い> 現在、野党の新進党幹事長のポストにある小沢は、日本がどのように変化すべきかについての議論をほぼ一人で取り仕切っている。だが彼は、矛盾だらけの人物でもある。というのも彼は、低姿勢、用心深さ、勤勉、とかく不透明な腐敗というこれまでの日本政治の特質を体現する人物でもあるからだ。小沢は、田中角栄、金丸信という、自民党のなかでももっとも腐敗していた二人のボスの参謀役として、自民党を裏から操ってきた人物である。とくに金丸信に仕えていた時代には、辣腕のディール・メーカー(黒幕)としてならし、自民党の総裁、つまり実質的には首相をだれにするかを取り仕切った。一言でいえば、(過去と対照的に)より開放的で、「普通」の政治システムの導入を熱心に唱える小沢を、国民の多くは、彼の機会主義、悪くすれば偽善と受け取ったのである。こうした見方も妥当かもしれないが、破綻した自民党旧エスタブリッシュメントとの深いつながりは、(逆説的ながらも)改革者としての彼の資質を高めこそすれ、損ねることにはならないのではないだろうか。
衆議院議員の三分の一が二世議員だが、現在五十三歳の彼もまた例外ではない。彼の父、小沢佐重喜は、戦後直後には政治的にはまったく無名だったが、そこから有力者へとのしあがっていった立志伝中の人物だ。佐重喜は農業を営むごくつぶしの父の家を出ることから武者修行を始めた人物だが、のちに政治家となり、政治家としての経歴を終えるまでには、選挙区である岩手の田舎でひろく尊敬を集める存在となり、自民党政権の閣僚ポストを幾度となく経験した。小沢の父は、一九六〇年代の安保改定、小選挙区制の導入をめぐって、社会党との間で熾烈な論争を繰り広げた人物として有名である。自民党は、安保改定をめぐる争いでは勝利を収めたものの、選挙法の改正が実現されたのは昨年になってからで、その多くは、息子の一郎に負うところが大きい。
一九六八年に父が死去したとき、小沢は法律の勉強をほぼ終えかかったところで、当時は司法試験を受けたいと望んでいた。しかし、父の選挙区である地元岩手の後援会は、弁護士になる夢を捨て、父の後を継いで選挙に立候補するよう一郎を説得した。一九六九年の総選挙で、小沢は二十七歳の若さで当選し、当時としては、最年少議員となる。
一般に自民党の政治家は党内でのパトロンを必要とするが、小沢の場合、田中角栄の引き立てを受けることになる。中学校しか出ていない田中は、たたきあげから建設業界のボスとなり、当時、急速に頭角を現わして日本の政界でもっとも権力をもつ人物にのしあがりつつあった。田中は、日本人が「金権政治」とよぶ手法――産業界、とくに建設業界をゆさぶり、米ドルに換算して、数百万ドルもの裏献金を引き出すやり方――の生みの親である。小沢は、当時の首相である佐藤栄作には魅力を感じず、既存のやり方を打破する活力に満ちた田中の政治手法に魅了された。一九九二年、小沢は、彼の伝記の執筆者の一人である渡辺乾介に、田中の魅力について次のように語っている。「われわれの世代は、長期に及ぶ佐藤政権に辟易していた。おそらく父の影響もあったのだろうが、私は官僚が操る政治に強い嫌悪感を抱いていた。佐藤は町の帳簿係と言われ、良かれ悪しかれ戦後政治家の典型だった。彼は安定した基盤を築き上げていたが、改革には消極的だった。一方田中は躍動的で何事にも積極的で、佐藤とは大違いだった」と。
田中もまた、気取らずに、率直な意見を述べる小沢に好感をもち、その後、田中は、私にとって小沢は息子のようなものだとしばしば語った。田中は、自分の子分である小沢と、新潟の大手建設会社・福田組の娘である福田和子との結婚をとりもった。こうしたつながりは、あたかも田中時代という王朝の建設を思わせるものだった。建設会社の資金と自民党の公共事業への影響力の融合は、もはや打破不能な状況になっていた。こうした癒着の枠組みは、今日に至るまで自民党につきまとう腐敗体質に影を落としている。
<愛されぬ政治家> 小沢は自民党の権力構造の中核を代弁する人物であるにもかかわらず驚くほど政界内部で人気のない人物である。彼は義理を欠き、人情に薄いとしばしば批判される。たとえば、一九八五年に田中が、日本の全日空にロッキード・トライスター機の導入をめぐって、(影響力を行使した見返りに)五億円の賄賂を得たとして地裁に告訴され、田中の政治的命運が尽きるのが明らかになると、小沢は田中派を離脱した。彼の行動は合理的だったが、それが賞賛されたわけではない。小沢の友人たちは、彼は並外れて合理的で、(自分の行動が)他人にどんな感情を抱かせるかなど考えずに論理的に動く人物だと説明する。小沢に庶民性がないのは、一つには彼が政治的に特権的なまでに恵まれた環境で育ってきた結果だ。ほとんどの若手自民党議員と異なり彼は、選挙に勝つためや、選挙資金を調達するために愛嬌をふりまく必要がなかったのだ。小沢が自分の選挙区の岩手を訪れることは滅多になく、選挙区での政治利益を取り仕切っているのはもっぱら小沢夫人である。
自民党副総裁の金丸信が表舞台から姿を消すまで、その参謀役を務めた小沢には、傲慢な人物という批判が絶えなかった。彼はしばしばその独裁者的な性格を批判されたが、これは言い換えれば彼が拙速で、コンセンサスが形成されるのを待てず、年長の指導者に敬意を払わないということで、これらはすべて日本では、人の感情を逆撫でするような態度である。たとえば彼は一九八九年に、次なる首相を決めるために、渡辺美智雄、宮沢喜一、三塚博という自民党の年長の指導者たちに自分が「面接」することを要求した。彼らがみな、こうした小沢のやり方に強く反発したのはいうまでもない。
一般大衆もまた、小沢の過去の行動に関して、法的な裁きがきちんとなされていないことに不快感を抱いている。彼に近い党内の友人、そして恩師である金丸は、一九九三年に佐川急便からの膨大な献金にまつわる脱税容疑で起訴された。金丸は国会議員を辞職するとともに、自民党からも抜け、現在も裁判は続いている。不法な合意がなされたとされる場に小沢も同席していたと証言する者もいるのだが、小沢は国会の証人喚問で、自分は飲み物を運び灰皿をきれいにするのに忙しく、そこで何が行なわれていたかを理解できる状況にはなかった、と証言した。これを真に受けた日本人はほとんどいないが、この文章を書いている段階で、小沢は佐川急便スキャンダルを含むいかなるスキャンダルをめぐっても起訴されていない。
日本の日刊紙、とくに、リベラルな立場をとる全国紙の『朝日新聞』は、先に指摘したようないきさつから小沢を深く疑っており、小沢の強固なリーダーシップの呼びかけの裏には、反動的でナショナリスティックな思惑が隠されているのではないかと疑っている。事実、『朝日新聞』のこうした懸念は、強固なリーダーシップに対する日本社会の懸念をある程度反映している部分がある。いまだに日本では、強固なリーダーシップを求める議論が起きれば、分散化した弱い権力こそが、一九三〇年代の行き過ぎを回避するための最善の策だという思考を逆に引き出してしまうのだ。
小沢のいうナショナリズムに曖昧な部分があるため、彼の主張は懸念をもってとらえられている。たとえば、彼に近い政治家たちは、日本の第二次世界大戦期の行動については、どちらかといえば公的に謝罪する姿勢をとっている。これに対して小沢は、補償問題については現実的な観点からの対応の必要性を強調するものの、先の大戦に関して道徳的な痛みを十分に感じているわけではない。昨年のインタビューで彼は次のように語っている。「(他のアジア諸国の)観点からみれば、日本は彼らを侵略したということになるだろうし、彼らがそう考えるのはむしろ自然だろう。正義とは、たとえ神がそうは考えなくても、多くの人がそれを正義と考える場合に使用される言葉だ。したがって、日本は正義の戦争を闘ったわけではない」と。
こうして小沢は、友人たちの中の謝罪派とは一定の距離を置いている。アウトサイダーの目には、彼は明らかに「政治家」で、それもおそらくは、安定した国際秩序の枠内で国益を追求するビスマルク流の権謀術数的な政治家と映るだろう。小沢は、ブッシュ大統領が標榜した「新世界秩序」を肯定的にとらえ、日本が世界の安定のために、外交的、軍事的によりいっそうの役割を果たせるように、それを制約している憲法九条の伝統的解釈を放棄させたいと望んでいる。
しかし、新聞が新たな小沢を額面どおりに受け入れるのをためらっているため、彼の頑なな性格のうち不寛容な部分が浮き彫りにされてしまっている。小沢は、自分の発言を「誤って伝えた」ジャーナリストたちを出入り禁止にし、自分に敵対的な勢力の主張を論破する気がないことをみせつけたが、これは、より開放的な政治的新ブランドへの自らのコミットメントをアピールしようという政治家にしては、決して賢明とはいえない態度だ。しかし、公正にいうならば、一部の新聞が一斉に反小沢キャンペーンを張っていたことを銘記すべきだろう。
小沢はあるとき記者たちに、一九三〇年代に新聞が、天皇制や軍部支配を拒否する者たちに非国民の烙印を押したことを指摘し、彼らに間髪入れずに反撃したことがある。「今の君たちも、それと同じことをやっている」と小沢はいった。「メディア側は自分たちの正義の枠組みにかなわぬ意見を述べる者を、私を含めすべて、権威主義者、ナショナリスト、あるいは右翼と呼ぶ」と。彼に対するこうした懸念が存在する以上、現実主義者の小沢自身、自分が有能な首相になれる可能性があまりないことを理解しており、だからこそ彼は、これまでどおり裏舞台の参謀役に徹している。
<国内改革> 小沢は一九九二年の金丸スキャンダルまでに、すでに変貌を遂げていた。もっとも、彼がとかく霧の立ちこめる自らの政治的過去に背を向けたわけではないものの、相も変わらぬ自民党単独政権はもはや日本にふさわしくないと確信していた。彼がこのことを確信したのは湾岸戦争の時だった。当時自民党幹事長だった小沢は、米国の外交関係者と頻繁に接触していたが、彼らは、日本も多国籍軍の活動をめぐって積極的な役割を担うべきだと強調し、さもなくば、米国がその兵士たちの命を犠牲にしてでも守っている世界の安全に日本はただ乗りをしていると批判されるだろうと主張した。小沢は米国側のこの要請に熱心に応えようとしたが、現地での穏当な貢献を提案した小沢の案でさえも、自民党、国会の双方で拒絶されてしまった。日本の国益には目もくれず、日本人部隊を(現地に派遣して)危機にさらしたり、憲法九条をめぐる伝統的な解釈に異議を唱えることで、あえて大衆の怒りを買う覚悟のできている政治家は、どの政党にもほとんどいなかった。
それでも小沢は、湾岸戦争のために一三〇億ドルという巨額の資金を拠出するのに尽力した。この法案を通過させるために、小沢は公明党と取り引きし、(法案支持の見返りに)当時三期めを担っていた自民党系都知事の任期満了をうけて九一年に実施される次回の東京都知事選では、公明党の候補者を支持すると約束した。結局、小沢・公明党ラインの候補者が敗北したため、彼は自民党の幹事長職を辞任したが、(湾岸戦争への)への財政面での支援法案は国会を通過した。小沢が重い心臓発作をおこしたのは、その二ヵ月後だった。
小沢にしてみれば、湾岸戦争を機に、一九九〇年代の日本が、国益にそった行動をとる能力を基本的に持っていないことがさらけ出された、ということになる。視野の狭い政治家たちが湾岸戦争への対応をめぐって死命を制する日米関係を危機にさらしたわけで、小沢はこうした危機を繰り返してはならぬと強く感じていた。小沢の外交問題への関心はさらに高まり、九一年に彼は、日本が直面する諸問題を議論するための、官僚、学者からなる小沢調査会という内輪の会を結成した。ここにおける研究の集大成が小沢の著作『日本改造計画』なのである。
さらに小沢は、湾岸戦争のいきさつから、決意に満ちたリーダーシップ、とくに外交面での日本のリーダーシップを促進し、根づかせるには、政治状況を変えなければならないと確信していた。自民党による単独支配と弱体な社会党という野党で構成される政治構図ゆえに、真剣な政治が行なわれず、状況は、集票ゲームと自らの政治的影響力を利用したビジネス界との癒着によって支配されてしまっている、と彼は考えた。小沢は九三年に次のように語っている。「戦後政治システムのもとでは、政党間、政治家間の、真摯で率直な議論は起こりえない。このシステムでは、だれもまじめな議論を行なわず、何に対しても自分の責任を引き受けようとしないし、ほとんどの問題をめぐって皆が曖昧な態度に終始する。われわれはこのシステムを壊す必要がある。そして、日本にとって、(この改革に残された時間は)そう多くはない」と。
他の自民党議員同様に、彼は選挙システムが問題の元凶だと考えた。中選挙区制で選挙が行なわれているために、社会党の当選者が多くなり、これによって、実際には多様な要素をもつ各保守勢力が、権力を維持するために(自民党のもとに)連合するという現象が起きる。一九五〇年代、小沢の父をはじめとする一部の自民党議員は、選挙制度を小選挙区制に改正しようと試みたが、これが実現していれば、社会党の議席は減少し、自民党が二つに割れていた可能性もあった。小沢の父とその支持者たちは、この二つの保守勢力が相互に権力を競い合い、一方で、米国に押しつけられた憲法の問題箇所の修正などの重要な問題をめぐって協調できるのではないかと考えたのだ。しかし、社会党はこれにうまく抵抗し、その結果、冷戦期を通じて自民党支配が続き、小沢がしたりげに指摘するように、非建設的な野党・社会党は、おおむね自民党の手のひらのなかで飼われることになる。
また中選挙区制は腐敗を助長しがちである。このシステムのもとでは、候補者たちは、選挙区の有権者の一部、たとえば、建設労働者、米作農家、労働組合員などの、おおむね全体票の一五パーセント程度かそれ以上に相当する利益団体の代弁者となることで議席を確保できる。だが小選挙区の場合、特定の利益団体をパトロンにして選挙に勝利を収めるのはより難しくなるし、候補者たちは理論的には、国政レベルの諸問題をめぐってもっと明確に自らの姿勢を示さなければならなくなる。最近における小選挙区制への復帰の主張はおもに腐敗阻止のための手段として大衆に提示されてきたが、小沢をはじめとする政治家たちにとってそれは、社会党を政治の表舞台から消し去り、二大保守政党による競争を基盤とする健全な政治システムを構築するための手段として重要だったのである。
九三年六月、海部前首相同様に、宮沢首相もまた小選挙区制導入をめぐる党内での十分な支持を確保できなかった。自民党議員の多くは、それが自らの議席を危うくするがために、目立たぬように小選挙区制の導入に反対した。だが、小沢と彼の同盟者はこれを絶好の機会ととらえた。
彼らは中選挙区制をめぐる腐敗追放の側に立つことにし、党内での抗争態勢を固めた。当時、金丸・竹下派は分裂しており、小沢にも残留部隊が残されていた。流れにまかせて小沢と彼の支持者は、宮沢政権に対して提出されていた内閣不信任案を支持し、自民党を政権の座から引きずりおろし、党を二分したのである。
小選挙区制と比例代表制を折衷されていくぶん希釈された選挙制度と区割り改正法案は、細川と小沢の強い後押しもあって九四年についに国会を通過し、次回の衆議院選挙からこのシステムが適用されることになった。早ければ今年中に衆議院選挙が行なわれる可能性もあるが、少なくとも実際に選挙が実施されるまでは、新たな選挙システムがどんな効果をもつかを云々するのは不可能だ。
ともあれ、腐敗防止対策という点では、新たな選挙制度よりも、日本経済が下降線をたどっているという事実のほうがより大きなインパクトをもつかもしれない。また、より一貫性をもった政府が登場するかどうかは、特定の単独政党が明確な勝利を収めるかどうかをはじめとする、多様な要素によって決定されるはずだ。
もし小沢と彼の新生党が勝利を収めれば、日本は、国内的な反対のもっとも起きにくい分野、たとえば、防衛や外交政策面での変化をまず経験することになるだろう。一方、たとえ小沢がその著書『日本改造計画』の内容に忠実であったとしても、変化のペースがもっとも遅くなるのは、官僚組織や利益団体における彼の多くの友人たちと一戦をまじえなければならぬ経済・行政上の規制緩和と行政機構改革だろう。改革主義者たちの唯一の同盟者となりうる勢力、つまり改革への追い風を作り出せるのは、着実に低迷と沈下を続け、迅速な改革の必要性をいやでも認識させている日本の経済状況だけかもしれない。
<外交・防衛政策> 小沢はいまや撤退しつつあるのかもしれないし、日本もまた混乱のなかにあるのかもしれない。だが、外交政策をめぐる彼の考えは、安全保障、外交政策部門での、たとえ小さくとも着実な変化を推進している。憲法九条の厳密な解釈の擁護者たる社会党(社会民主勢力)の解体によって、憲法解釈に常識的な修正を加えるのも可能な状況が生まれている。たとえば国会は昨年末、海外で危機的な状況下に置かれた日本人を救出するために自衛隊機の使用を認める法案を通過させた。左派の反対が存在したこれまでであれば、こうした措置の導入はおよそ考えられなかった。一二年間に及ぶ交渉を経て、日米はいまや、NATO(北大西洋条約機構)諸国と同様の物品役務・融通協定をめぐって合意に近いところまできているが、これもまた、これまで左派勢力の反対に阻まれてきた案件である。九三年にカンボジアでの国連活動へ自衛隊を派遣したことは宮沢政権を窮地に追い込んだが、いまや国連活動への自衛隊の派遣は日常的であり、これが社会的に大きな論争となることもない。
阪神大震災は、政府によるより周到な危機管理計画の策定を促し、とかく日陰者扱いされてきた自衛隊を、尊敬に値する社会組織の一員として認知させる効果をもった。事実、日本人の多くは、三月に起きたオウム教団による地下鉄サリン襲撃事件の処理作業に自衛隊の化学戦実務班が投入されたのを肯定的にとらえており、警察によるこのカルト教団の施設の捜索に自衛隊が参加したことへの抗議の声も聞かれなかった。これが数年前であれば、自衛隊が警察とともに活動することなど想像すらできなかったはずである。
左派勢力の反対が存在しない現在、日本の防衛庁が、このほかにも優先順位の高い二つの計画を追求するのも可能になるだろう。これらの計画はともに、より独立的な日本の防衛態勢の基盤づくりを促進すると考えられる。一つは、提案されている戦域ミサイル防衛システム(TMD)だ。これは、ミサイル攻撃に対する防衛(抑止)システムとして、米国との協調のもとに進められる数十億ドル規模の防衛計画である。もう一つは、現在その多くを米国に依存している日本の情報収集能力の大幅な強化である。日本の軍事専門家は、北朝鮮の核能力の潜在的脅威の評定などの重要な問題について(その情報を)米国に依存していることを不安に感じだしている。彼らは、クリントン政権が北朝鮮による核燃料の開発や使用に対して寛大な取り決めをしたのは、日本や韓国の利益をめぐる冷徹な分析に基づくものではなく、むしろ、大統領の国内政治上の弱さのせいではないかと懸念している。実際、日本の防衛プランナーたちの大きな願いの一つは、日本側が独自に地域的脅威を評定できるような軍事衛星をもつことである。
こうした防衛・外交面でのトレンドが続いていけば、日本側も、より的確な言葉で自己主張を強め、独自の立場をうちだすようになるだろう。北朝鮮をめぐって昨年起きた危機への日本の対応の変化には、小沢の考えが影響を与えていた。湾岸戦争への対応をめぐる大失態を踏まえて、羽田政権は、日本国内の北朝鮮系団体で資金力豊かな朝鮮総連から北朝鮮への支援資金の流出の阻止を含む強硬な措置を支持し、小沢路線の継続のために努力した。小沢は、日本が(北朝鮮問題をめぐって)自らの役割を果たすべきだと決意していたのだ。
その一方では、カーター元大統領が北朝鮮を訪問し、米国と北朝鮮間の交渉が合意の方向で再び動き出したが、小沢は、北朝鮮による核開発計画の現状凍結の見返りとして、
五〇万トンの重油と軽水炉二基を提供するという米国側の約束を公然と批判した。実際この取り決めは、数多くの問題を棚上げにしていた。小沢はテレビのインタビューで、「核査察の問題が解決しないかぎり、われわれは、財政面で(北朝鮮に)協力すべきではない」と発言した。この発言をしたとき、小沢は野党勢力の一員にすぎなかったが、もし、彼が政権の座にあったらこれとは異なる考えを持っていたかもしれない。いずれにせよ、小沢が今後も、日本が米国の完全なパートナー、それも自分の考えを明確に述べるパートナーになるべきだと主張していくのは間違いない。
小沢、あるいは少なくとも彼が代弁する感覚が、今後の日米関係の基盤をなしていくと思われるが、彼の米国に対する考えは、自民党の旧世代の指導者たちの考えとは異なっている。戦後の自民党指導者たちは、矛盾を生き抜いてきた。彼らは、外交政策のほとんどについては盲目的なまでに米国のリードに従う姿勢をとりながらも、一方で、日本の経済的優位を確立させることに強くコミットしていた。日米両国が、とくに貿易問題をめぐって対立や紛争を引き起こすと、自民党の指導者たちは、イエスともノーともとれる曖昧な外交姿勢をとり、これによって幾度となく対日関係に暗雲が立ちこめた。
米国との安全保障上の緊密な絆を維持していくことをとくに重視し、貿易摩擦が同盟関係を損なうと考えている小沢は、米国の交渉者の言い分に理があるような場合に、交渉を打ち切って日米が敵対的な論争を行なうのは合理的ではないとみている。小沢の政治理解をあてはめて考えれば、現実を理解するのは簡単であり、日本の貿易交渉者が立てこもる堅固な防壁の裏には、多くの場合、利益団体の複雑な絡み合いが存在することがわかる。
八八年、日本の公共事業市場を米国企業に開放させることを目的とした日米交渉を小沢は妥結に導いたが、以来、彼は米国の貿易交渉者にとって貴重な友人である。モトローラ社のビジネスを日本市場で立ち上げるのを助け、大幅な価格の引き下げを実現した携帯電話市場をめぐる昨年の合意の影の立役者もまた小沢だった。最近の自動車交渉にしても、(もし小沢が交渉していれば)次期自民党総裁の呼び声の高い橋本龍太郎通産大臣が行なったような、二国間関係を損ないかねないスタンドプレーはみせなかったはずだ。小沢なら、米国車の日本市場でのシェアを保証することを回避しつつも、米国との取り決めを目立たぬように妥結へと導く、地味な努力を重ねていただろう。
米国の重要な同盟者である小沢は、自民党の旧指導層のように米国のイニシアティブに対する盲目的な追随者ではなく、(問題があると感じた場合には)はっきりと物をいい、ときには批判さえする。もっとも小沢は、日米同盟の存在が、日本が他のアジア諸国に引き続き受け入れられるかどうかの鍵をにぎっていると見ているし、もっと最近では、しだいに愛国主義的となり、脅威となりつつある中国に備えるためにも、日本はカウンター・バランスとしての米国を必要としていると強調している。この意味で小沢は、前自民党議員の石原慎太郎が火付け役となり、保守派勢力の一部で支持されている「アジア・ファースト」(アジア重視)論には反対している。小沢は、日本はワシントンに対してアジアで力強い役割を担うように働きかける一方で、日本も、これまでよりも建設的で、なおかつ一定の距離をおいて批判もするという役割を担っていくべきだと考えている。いずれにせよ、今後日本は、米国のアジアからの撤退という将来のシナリオに備えて、安全保障面での自主路線を強化していくだろう。
外交・防衛政策面で日本を「普通の」国家にしようとする小沢の試みに対して、自民党のハト派はこれを牽制しようとするだろう。自民党(前)総裁の河野洋平に代表されるハト派の指導者たちは、実務面での変化は受け入れるだろうが、憲法の再解釈、防衛予算の実質増、国連戦闘部隊への自衛隊のコミットメントなどに関しては一線を画す態度をとるだろう。こうしたハト派の立場は世論の支持を得ている。実際、日本の世論は、危険が迫っていても無視して行動を起こさないという戦後のエートスからの離脱となると、ひどく保守的になる傾向がある。
こうした制約をわきまえている小沢は、日本の部隊が軍事行動が行なわれている近くに位置する可能性についてはこれを受け入れているが、国連監視のもとでだけ自衛隊を関与させるべきだと言葉を選んで強調し、憲法の改正についても慎重な態度をとっている。
しかし一方で彼は、日本の自衛隊は国連の平和維持活動に参加してもよい、という条文を憲法九条につけ加えることもできると主張している。また小沢は、日本の安保理常任理事国入りに関しては、いささか茶目っ気に満ちた議論を行なっている。彼は日本はいまだ常任理事国としての責任を負えるような体制にないというのを好むが、これは、日本のリーダーシップが、安保理常任理事国に求められる困難な決定を下せるほど成熟していないという彼の主張の言い換えなのである。
より積極的な日本外交を求める小沢のビジョンも、結局は、国連の枠組みに閉じこめられてしまうだろう。冷戦以後の国連の実績はわれわれを失望させるものだが、目下のところ、日本の広範な安全保障をめぐる小沢のビジョンを収める最適の場所は国連だろう。小沢は『日本改造計画』のなかで、貿易国家としての日本は、都市国家として広大な海外の通商拠点を積極的に防衛していたころのヴェネツィアを範とすべきで、結局は崩壊した古代カルタゴを範とすべきではないと指摘している。日本は、こうした見解の意味するところに現に直面させられつつあるが、小沢一郎のリーダーシップを受け入れるにはまだまだほど遠い状態にある。●
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