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カラジッチとミロセビッチの共謀
一九九二年の最初の数ヶ月間に、ボスニアの状況は二つの平行線へと分裂していった。このうち一つの路線を率いていたのがイゼトベゴビッチである。彼の政府は、ECの働きかけに応じて、独立の準備を始めていた。二月二十九日と三月一日に実施されたレファレンダムの結果は予想されたとおりのものだった。現実的に、ボスニア内のすべてのクロアチア人、イスラム教徒は独立を支持し、支持率は六四%に達した。一方、現実的にボスニア内のすべてのセルビア人はレファレンダムをボイコットした。一方、もう一つの路線を率いていたのは、ボスニアにおける民族的少数派であるセルビア人指導者たちである。彼らはボスニアからの分離と戦争に備えていた。一九九〇年のボスニアでの選挙以来、私は、定期的にカラジッチと会合をもっていた。彼は流れるような髪をもつ長身の人物で、人当たりがよく、意外なことに本来は精神科医である。(ヒトラー、ナポレオン、スターリンなど)極端なナショナリストが実際にはその国の生まれではないという伝統どおりに、カラジッチもまた、ボスニアではなく、モンテネグロの出身である。私の観察するところ、彼のきわだった特徴は、その頑固さ、そして、イスラム教徒、クロアチア人などの非セルビア系民族集団に対する根深い敵意だった。
私は、彼のあまりに大胆な主張にほぼ唖然とさせられた。彼はこう語ったのである。「セルビア人は、現在われわれが生活している地域だけでなく、セルビア人が埋葬されている地域に関しても民族的領有権を持っている。なぜなら、彼らが埋葬された地域は、他の民族がセルビア人から奪い取った土地だからだ」と。もし、あなたと同様の主張をクロアチア人やイスラム教徒が行った場合、あなたはそれを受け入れるのかと私が質すと、彼は「受け入れない」と答えた。「なぜなら、クロアチア人はファシストだし、イスラム教徒は原理主義の狂信主義者たちだからだ」。だが、彼の事実認識は完全に間違っていた。カラジッチは「サラエボはセルビアの町だ」というが、そうだったためしは歴史上一度もない。後の人種差別哲学は、かつての南アフリカにおけるアパルトヘイト思想同様に極端なものである。イスラム教徒の村での虐殺、民族浄化、そして民間人への攻撃を計画したのはカラジッチである。ファナティシズム、強引さ、人間の尊厳に対する軽視など、彼は、かつてのハインリッヒ・ヒムラーと同じ類の人間である。
カラジッチとミロセビッチは双方とも、私に対しては、さほど相手を深く知っているわけではないし、軍事作戦上の連絡などまったくとっていないというふりをした。ミロセビッチは、私がボスニアのことに話の矛先を向けると、きまって、自らの無実を装った。「どうして(その問題で)私のところにきたのですか。ジマーマンさん、セルビアはボスニア(問題)とはまったく関係ありません。あれは、われわれには関わりのない問題です」と。こうした嘘は、ミロセビッチ、カラジッチの双方に共通している。ミロセビッチは、攻撃の責任を回避しようとし、一方のカラジッチは、彼がボスニアのセルビア人の英雄ではなくミロセビッチの子分と見なされるのを避けようとしていた。
しかし、彼らが戦争犯罪をめぐるパートナーであるのは間違いない。ミロセビッチがクロアチアに対してとった戦術にならい、カラジッチの部下たちは、ボスニア紛争が始まる一年前から、ボスニアにおいて三つの「セルビア人自治区」を一方的に宣言し、連邦軍から武器を調達し、九月には自分たちの境界線を守るためと称して連邦軍の介入を受け入れた。彼らは、ボスニア近郊やその他の都市にける戦略的要地を固め、「ボスニア・セルビア軍」を組織し、自分たちの議会を発足させ、一九九二年三月二日には、サラエボでクーデターを試みた。ちなみに、ボスニア・セルビア軍とは、実質的には、連邦軍の下部組織のようなものである。その指揮をとるのは連邦軍の将軍だし、彼らは、連邦軍が与えた重火器、戦車、空軍力を使用している。そして、ボスニアの独立をまだどこの国も承認していなかった一九九二年三月、彼らはボスニア内における「セルビア共和国」の誕生を宣言したのである。こうした一連の措置、とくに、連邦軍の関与は、ミロセビッチの直接的な介入なしでは不可能だったはずである。
アメリカとNATO同盟諸国は、セルビアとボスニアのセルビア人勢力の共謀の証拠が存在することや、ボスニアでのレファレンダムの結果を考慮するとともに、ボスニアを国家承認すればセルビアによるボスニアへの攻撃を阻止できるのではないかと期待し、一九九二年四月初めにボスニアを国家承認した。しかし、承認に踏み切る数日前に、セルビア側は、セルビアとボスニアを隔てるドリナ川を越えて、ボスニアへの攻撃を開始した。ミロセビッチ、カラジッチ、そして彼らのスポークスマンたちは、西欧諸国がボスニアを国家承認したために、セルビア人は行動を起こさざるを得なくなったと主張した。だが、私はそうは思わない。カラジッチとミロセビッチという二人の指導者は、すでにボスニア分割をめぐる共同戦略を築き上げていたし、世界がどのような動きをとっていたのせよ、彼らは行動を起こしていたはずである。
ボスニアへの攻撃は、ミロセビッチとカラジッチが、きわめて攻撃的なナショナリストであることを如実に物語っている。ミロセビッチ流のナショナリズムを、経済的な誘因策、あるいは懲罰策などの軍事力投入以外の方法で押さえ込むのが、不可能なことは明らかだった。残念なことに、ブッシュ、クリントン政権の双方とも、バルカン地域にかなりの利益が存在したにもかかわらず、武力介入することには乗り気ではなかった。さらに、二人のセルビア人強硬派は、自分たちのプロパガンダを、単一民族による純粋な民族国家という粗野な概念と結びつけていた。純粋な民族国家という概念がとりまとめるものがあるとすれば、それはナショナリズムだけであり、そこにおけるナショナリズムは、当然過激なナショナリズムへと傾斜していく。ユーゴスラビアのケースが実証しているように、そうした概念を持ち出せば、そのほとんどが他民族国家によって構成される現在の世界は、すべて深刻な紛争を抱え込むことにある。そこに寛容の精神があれば、少数派の利益を尊重することでその行動を抑制したものにすることもできたはずである。だが、ユーゴスラビアには、民主主義とデマゴーグの双方がいたとはいえ、ドリナ川を越えての攻撃は明らかに野蛮人たちの仕業だった。
セルビア人の攻撃は、イスラム教徒が民族的多数派として生活する町々をターゲットにしていた。クロアチアとの戦争の際にセルビアを離れて、殺人と略奪の旅にでた悪名高いアーカンをふくむセルビアのギャングたちが、ビジジナなどのイスラム系の町の瓦礫の中で勝ち誇るさまがベオグラードのテレビで映し出されていた。レイプ、民族浄化、イスラム教徒の村の虐殺など、ボスニア紛争の当初に起きた数多くの残虐行為のほとんどは、こうしたセルビアからやってきた略奪者たちが犯したものだった。ミロセビッチは、ボスニアで起きていることとは何ら関係がないと主張していたが、セルビアからの民兵が現にボスニアにいることによって、この主張の根拠は大きく崩れていた。
私は、ワシントンからの指令もあって、ミロセビッチとの会談で、ボスニアでの攻撃に関して彼を批判したことがあるが、彼はこれに対して、「ボスニアでの戦闘に、セルビアからはせ参じているセルビア人など誰一人としていない」と主張したのである。
「しかし、私は現に、アーカンがイスラム教徒の村を攻略して勝ち誇っているさまを、ベオグラードのテレビで見たのですよ」
と私は言った。
これに対して、ミロセビッチは、
「われわれのテレビ局は、彼らの望むまま何を放送してもよいのです。(だから、テレビの内容を)そう真剣に受け取らないで欲しい」
と答えた。さらに彼は、
「いずれにせよ、ボスニアでの問題を心配する必要はありません。ボスニアのセルビア人がそう不満を感じているわけではないのです。彼らの人権がボスニアで踏みにじられているわけではないのですから。クロアチアのセルビア人とは大違いですよ」
と言った。ボスニア政府がセルビア人の人権を尊重していることを暗に認めたこのミロセビッチのイゼトベゴビッチ政権に対する間接的な賞賛は、大きな矛盾をはらんでいた。なぜなら、そもそもボスニアのセルビア人は、セルビア人の人権を抑圧するような独立した他民族政府のもとでは暮らしたくないと考え、であればこそ、他の民族を殺し、拷問し、追放する権利を持つと主張し、その粗野な攻撃を正当化してきたからである。
最後の会談
ボスニアにおけるセルビア人の攻撃に抗議するために、私がワシントンに召還されるわずか数週間前、私は、ベオグラードでカラジッチと最後の会談の場をもったが、その際、彼は意図的にミロセビッチのことに話が及ばないようにしていた。カラジッチはアメリカ大使館に、彼の側近で、彼の水先案内人のごとき存在であるニコラ・コジェビッチとともにやってきた。コジェビッチは、アメリカの大学で教鞭をとったこともあるボスニアのセルビア人で、本来はシェイクスピアの専門家である。だがいまや彼が得意としているのは、私とカラジッチの会談が終わった後に、私の方を持ち、自らを、ボスニアのセルビア人勢力への政策を良心的な方向へ導いている人物として描き出すことだった。だが、ベオグラードを離れて数ヶ月後、私は、サラエボの丘の上から、市民達に対する攻撃を指揮するコジェビッチの写真を目にすることになる。
私がもはや呪われたユーゴを去る前の最後の会談の一つが、英文学の教授と精神科医の気味の悪い二人組みとの会談だったことは、いかにもふさわしいものだったかもしれない。少なくとも、それがシェイクスピアとフロイトであれば、彼らをはじめとする気の触れた人物たちをして、ユーゴにおける人間のつながりを断ちきるという暴挙に走らせた不合理を理解できるのかもしれない。
カラジッチは、いつものように、ヨーロッパ諸国を批判することからはじめ、イゼトベゴビッチのキャラクターとイデオロギーを攻撃し、アメリカがセルビアとの伝統的な絆を断ち切ったことを嘆いた。そしてカラジッチは、彼が行っていることの正当化をわれしらずのうちに始めていた。「ジマーマンさん。あなたはセルビア人を理解すべきです。われわれは数世紀にわたって裏切られてきた以上、もはや他の民族とともに生活していくことはできないのです。われわれは、独立した固有の存在として生きていかなければなりません。われわれは勇敢な民族です、そして、われわれが自らのなすべきことを行うために、頼みとできるのは自分たちだけです。だからこそ、われわれは武力に訴えているのです。しかし、われわれは憎むことを知りません。セルビア人を憎む能力を持っていないのです」。
私は彼の態度を明確に見極めようと試みた。「あなたはいったいどのようなボスニア・セルビア共和国を心に描いているのですか、それはセルビアの一部なのですか」と。
「それはボスニアのセルビア人が決めることです」と彼は言った。「しかし、我々の第一の目的は独立です、そうすることで、われわれは、他の民族から離れて暮らすことができるようになります」。
「どこが首都になるのですか」と私は尋ねた。
「いうまでもなく、サラエボです」。
「しかし、人口の五〇%がイスラム教徒で、セルビア人の比率が三〇%に過ぎない町を、セルビアの首都とするのですか」。
カラジッチは即座に答えた。
「サラエボの町は、イスラム教徒、セルビア人、そしてクロアチア人居住区に区別されることになるでしょう。そうすれば、だれも、他の民族とともに暮らしたり、一緒に仕事をしたりする必要はなくなります」。
「ではどのように分割するのですか」。
「壁によってです」と彼はさも当然であるかのように言った。
「もちろん、許可証をもち、検問所を通りさえすれば、他の民族の居住区へ行くこともできます」。
私は、この数世紀にわたって、数多くの民族が調和的に暮らしてきた、人間性の節度の象徴ともいえるサラエボの町のことを思った。そして、私は、憎しみと冷戦の分断線のシンボルで、一年ばかり前に崩されたばかりのベルリンの壁に思いを巡らした。
「あなたは、サラエボが壁が崩壊する前のベルリンのようになると言っているのですか」と私は尋ねた。
「そのとおり」とカラジッチは答えた。「われわれの考えるサラエボとは、まさに、まだ壁が存在した時期のベルリンのような存在だ」と。●
Warren Zimmermann 一九八九年から一九九二年まで、駐ユーゴスラビアアメリカ大使を務めた。
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