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フォーリン・アフェアーズ日本語版 公開論文

※メディア、およびブロガーの方へ:公開論文の放送、記事、ブログ等での引用については、「フォーリン・アフェアーズ日本語版●●年●月号の『<論文タイトル>』)によれば」、とクレジットを必ず入れてください。長文の引用については、全体の2割程度なら許容範囲です。この場合も間違いなくクレジットの明記をお願いいたします。


ユーゴスラビア崩壊の記録(1)
The Last Ambassador
 ウォーレン・ジマーマン/元駐ユーゴスラビア米国大使
 フォーリン・アフェアーズ日本語版1995年5月号
 
 
民族的な融合を繰り返してきたユーゴ市民にとって、「民族を意識せずに生活するのはきわめて自然」なことだったし、彼らが民族的な敵意を抱いていたわけでもない。つまり、ユーゴを崩壊へと導いた主要なアクターはとは、「純粋な民族国家」の形成という自らの政治的野望のためにナショナリズムを演出したミロセビッチ、そして、ツジマン、カラジッチなど、一握りの極端なナショナリストたちなのである。彼らは、自らのプロパガンダを、単一民族による純粋な民族国家という粗野な概念と結びつけることで、意図的に上からのナショナリズムをあおり立て、止めどない抗争の温床を作り出したのである。「人間性の節度の象徴だったサラエボの町」がなぜ、かつての「ベルリンの壁」のような存在へと回帰しようとしているのか。時代錯誤というほかはない。「最後の」アメリカ大使が当時の日記をもとに振り返るユーゴ崩壊の全記録。
 
 
ユーゴへの赴任に備えて

 今から考えれば「最後の」という言葉のほうが適切だが、「新任」のユーゴスラビア大使としての私の任命が確認された直後の一九八九年初め、私はローレンス・イーグルバーガーに連絡をとろうと試みていた。彼は、ブッシュ新政権の国務副長官に指名されていたものの、当時はまだ議会の承認がとれていなかった。イーグルバーガーの仮のオフィスは、豪華な国務副長官室の裏にある小さな部屋だった。そして、私は、そこで、喘息持ちの彼が本来吸ってはいけないタバコをふかしているのを目撃することになる。

 イーグルバーガーは、アメリカにおける、バルカン地域をめぐる卓越した専門家の一人である。私を含む多くの外交官同様、彼もまたユーゴスラビアに二度にわたって赴任した経験を持っていた。私と彼は、ともに、ユーゴスラビア、そして、ユーゴスラビアの人々を愛していた。話が進むにつれて、われわれは、ヨーロッパで革命的な変革が起きている以上、アメリカのユーゴに対するこれまでのアプローチは、もはや意味をなさないとみなす点でともに同じ考えを抱いていたことを知ることになる。

 実際、一九八九年までに、世界は大きな変化を経験していた。冷戦は終わり、ソビエトは解体途上にあった。もはや東ヨーロッパ諸国に対するソビエトの締め付けはなくなっていた。ポーランドとハンガリーは、ほぼ西欧的な政治システムをすでに実現していたし、チェコスロバキアもほどなくこれに続くと考えられていた。こうした状況を考慮し、私とイーグルバーガーは、新任大使としての私が、ベオグラードと各共和国の首都において行なう予定の挨拶に、次のような新たなメッセージを盛り込むことにした。

 今やアメリカが、冷戦期のようにはユーゴスラビアを地政学的に重要視していないこと。そして、チトー将軍が、ユーゴスラビアを、共産主義のイメージからは考えられないような政治的な開放性を備え、しかも経済的中央集権度という点でも緩やかな体制の国家建設に成功しただけでなく、ソビエトからの自主・独立という点でのモデル国家に育て上げたこと。にもかかわらず、今や、ユーゴスラビアが、経済的、政治的開放性という点で、ポーランドやハンガリーにさえも遅れをとっていること。さらに、人権擁護がアメリカの政策の重要な要素となっていること、そして、ユーゴスラビア、特に、権威主義的なセルビア共和国政府が、(コソボ州の)民族的多数派であるアルバニア人の基本的人権を組織的に剥奪しており、この問題をめぐる記録が決して芳しいものではないこと。そして最後にユーゴスラビアの統合の維持、独立・領土保全へのアメリカの支援という伝統的エールを送ることを決めた。さらに私は、アメリカが支援するのは、あくまで民主主義という状況のもとでの統合であり、強制された統合、あるいは、軍事力によって維持されるような統合には強く反対するというメッセージを加えることにした。

 こうして、準備万端を整えた私と妻は、一九八九年三月九日、二一年ぶりにベオグラードに到着した。スラブとトルコの面影を持つ埃っぽいベオグラードの町は、かつてと比べてもそれほど変わっていなかった。栗の木の木陰に作られた屋外のカフェではかつて同様に、皆が政治を語っていた。ベオグラードの町は、訪れれば訪れるほど味のでてくる町で、私自身この町が好きだった。変化があったとすれば、多くの人々が論争の対象としていたのがセルビアの政治状況だったことであろう。野心的で、情け容赦のない共産主義者同盟の指導者スロボダン・ミロセビッチが、(セルビア共和国の共産主義者同盟党首の)ポストを手にしてから、すでに数年が経過していた。そして、一九八九年初頭、ミロセビッチの関心の多くはコソボ問題にあった。

 ユダヤ人にとってのエルサレムと同様に、セルビア人にとってのコソボは、中世の(セルビア王朝時代以来の)神聖なる聖地である。戦後、コソボ州の人口の九〇%をアルバニア人が占めるようになり、彼らは同州における支配的地位を確立させた。ミロセビッチは、何とかこのコソボを再びセルビア人の管理下に置きたいと考え、それを実現するためであれば憲法違反も辞さない考えだった。共産主義者同盟の影響力を利用して、彼はコソボの行政システムを停止させ、事実上、乗っ取るという行動にでた。ミロセビッチは、コソボの官僚および党機構を、セルビア人や彼に従順なアルバニア人に置き換えた。そうした中の一人が、私との会見の際には、つねにシャツに汗をにじませていたコソボの共産主義者同盟の指導者、ラーマン・モリナである。その後、彼は心臓発作によって若すぎる死を迎えるが、その原因がストレスだったのは間違いない。

(訳注) コソボ自治州は、アルバニアと国境を接し、人口面ではアルバニア民族が圧倒的な多数派であるが、一方でセルビア共和国内の自治州としてセルビア人に支配されてきた。六〇年代末の政治的自由化とともに、アルバニア人のセルビア人支配に対する反発が強まり、六三年憲法、七三年憲法によって、自治州の共和国への依存度は弱められ、連邦における独立的構成要素として色彩が強まっていく。だが、八八年頃から、今度はセルビア系市民が、コソボの自治権の制限を求めて大規模な集会を開くようになり、八九年三月には、セルビア共和国憲法の修正案が可決され、セルビア共和国のコソボに対する権限が強化された。

 






 コソボ問題をめぐって、私とイーグルバーガーが伝えようとしたメッセージは、もしユーゴスラビアがアメリカとの緊密な関係を維持したいのであれば、(セルビア共和国は)コソボ自治州における人権侵害を止める必要がある、という単純なものだった。このメッセージは、コソボのアルバニア人だけでなく、すでに民主的となっていたスロベニアからも歓迎された。スロベニアはかねてより、コソボの状況は、ミロセビッチの独裁を端的に示す例であると批判していた。一方、ミロセビッチは私の批判を、自らに対する個人的な敵意として受け取ったようである。事実、彼はその後一年近く私と会おうとはせず、その理由として、私のコソボ問題をめぐる発言を挙げていた。

(訳注) 旧ユーゴスラビアは六つの共和国(セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、スロベニア、モンテネグロ)と二つの自治州(コソボ自治州、ボイボジナ自治州)によって構成されていた。戦後の歴史を簡単に振り返れば、一九四五年に、チトーを首班とする連邦人民共和国が発足するも、チトーとスターリンの対立ゆえに、四八年にコミンフォルムから追放され、その後、自主管理と非同盟を軸とする独自の社会主義を建設し、六三年に社会主義連邦共和国となる。五二年以来、政党名を、共産党から「共産主義者同盟」へと変更。八〇年に終身大統領だったチトーが死去すると、連邦幹部会という集団指導体制が、国家元首の役割を担うことになる。

 

 





ミロセビッチという人物

 ユーゴスラビアを崩壊に招いた複雑な問題の元凶はミロセビッチだった。セルビアの人々は才能、感情ともに豊かで、多くの人は基本的にアメリカに好意を抱いている。その理由は、一つには、アメリカ人、セルビア人ともに話好きであること、また、二つの世界大戦期に両国が同盟関係にあったことも関係しているのかもしれない。しかし、セルビア人の悲劇的な問題点は、彼らが歴史に呪縛されてしまっていることである。彼らは、将来ではなく、過去を見つめている。バルカン地域では、知識人は一般的にナショナリストであり、セルビアに関していえば、その思い込みたるや半ば病的なくらいである。


本質的に統合に興味のなかったミロセビッチは、もし統合を維持するのであれば、セルビア人が支配できるような統合の枠組みを、それも、兵員の過半数以上がセルビア人だったユーゴ連邦軍の力を通じて実現したいと考えていた


 過去の歴史をめぐるこの悲しくも、パラノイア的なセルビア中心主義が存在するために、彼らは、うまくいっていないことを、すべて他の民族のせいだと考えがちである。かつてのソビエトにおけるロシア人同様に、セルビア人たちもまた、ユーゴスラビアの人口の四〇%を占める彼らは、歴史的な使命感を持っており、それにふさわしい役割が与えられるべきだと考えていた。当然、彼らは、(民族的要素を)否定してユーゴスラビアという国家を作り上げたチトーに対しては敵意を抱いていた。実際、チトーがこの世を去ると、ユーゴスラビアは分裂し、もはや特定の民族の主導権のもとに一つにとりまとめていくのは困難な状態に陥っていく。こうした状況下、それまでの状況が不当であると考えていたセルビアのナショナリストが、それを正すべく、立ち上がったのはむしろ当然だった。だが、そのナショナリストがほかならぬスロボダン・ミロセビッチだったのは、セルビア、その近隣諸国、そしてヨーロッパ全体にとって大きな悲劇だった。

 一九八九年の春から約一年がたち、一九九〇年になると、ミロセビッチも私との会談に応じるようになり、私も彼のことを次第に知るようになる。われわれは長時間に及ぶ会談を幾度となく持った。もちろん二人の意見が一致することはなかったが、それでも、大声での言い合いになるようなことはなかった。ミロセビッチは次のように語った。「ジマーマンさん。ユーゴスラビア(国家の存在)を本当に信じているのはわれわれセルビア人だけです。われわれセルビア人は、クロアチアやスロベニアのように、ユーゴから分離しようと試みているわけではないし、ボスニアのイスラム教徒のようにイスラム国家を築こうとしているわけでもありません。しかも、彼らは、第二次世界大戦のときにあなたがたの敵国で、一方われわれは同盟関係にあったのです」と。

 コソボ問題に関する、彼の解釈は明確だった。

「第二次世界大戦中の一時期を除けば、コソボはこれまでもつねにセルビアのものでした。にもかかわらず、われわれは(コソボの)アルバニア人に、彼らが自らの政府、議会、国立図書館、学校を持つことさえ認めたのです。(もっとも、ミロセビッチが私にこう語った当時は、このうちの何一つ実現されてはいなかった。)われわれは、彼らが自分たちの科学院を持つことさえ認めたのですよ。あなたの国、アメリカでは、黒人のために科学院がありますか?」

 ときに真実でないミロセビッチの主張を正すだけの知識を持たない人々にとって、彼は相手にかなり強い印象を与えることができるようである。事実、ミロセビッチと会見し、彼の弁舌に圧倒され、オフィスからふらふらになってでてくるアメリカの上院議員、下院議員の多くが、「なぜ、彼は私が予想していたほどに悪者じゃないのだろうか」と叫んでいたくらいである。ある下院議員にいたっては、彼をホワイトハウスの朝食に招待したくらいである。ミロセビッチは、アメリカ人にどう対処すればよいかを十分に心得ている。(バンカーとして、長期にわたってニューヨークに滞在した経験をもつ)ミロセビッチは、(西欧諸国の政治家との)会見においては、西欧流の身だしなみを整え、スコッチの水割りを飲み、イタリアのタバコを吸う。また、彼のふくよかな頬は、強権的な指導者にはおよそ似合わないものである。実際、ミロセビッチは、政治ポスターを作る際に、勇猛な風貌に見せるように懸命だったという。彼は、どちらかといえば話をしやすいタイプで、あえて明るく振舞おうとする人物である。だが残念なことに、本当のミロセビッチは、完全に彼の暗黒の部分に支配されてしまっている。


要するに、ミロセビッチの考える統合とは、民主主義とは何ら関係のないものだったし、他の民族集団との権力共有もその視野には入っていなかった


 ミロセビッチが(セルビアの)共産主義者同盟の指導者に登り詰めるさまは、セルビアの基準からみても、きわめて権威主義的なものだった。ミロセビッチは、彼が政治の世界へ入るそのチャンスを提供したイワン・スタンボリッチを、自らが計画したパージの標的として裏切り、追放することで、セルビア共和国の共産主義者同盟の指導者に登り詰めたのである。ミロセビッチは機会主義者であり、イデオローグではない。つまり、彼の行動を規定するのは、ナショナリズムではなく、権力志向なのである。ファウスト流に言えば、彼は権力を手にし、それを維持していくために、ナショナリズムに魂を売ったのである。
 ミロセビッチは、異常なまでに冷血な人間である。例えば、私は、誰かの個人的な悲劇に彼が同情するのを一度として見たことはない。彼にとっては、それがセルビア人であると、イスラム教徒であるとを問わず、人々は単なる集団か、あるいは抽象的な存在に過ぎないようである。さらに私は、ミロセビッチが、セルビア人を含む他の人物のことを誉めたり、優しいコメントを述べたのを一度も聴いたことがない。この冷徹な人格ゆえに、ミロセビッチは、ボスニア紛争におけるセルビア人による残虐行為を、大目に見るにとどまらず、それを奨励し、それを組織だったものにさえした。その虚言癖はいうまでもなく、彼がボスニアにおけるセルビア人勢力の行動を(自分には関係のないことと)しらをきり、恣意的に解釈できるのは、この冷血さのなせるわざなのである。ミロセビッチにとって、真実とは相対的な価値に過ぎない。もし、それが自らの目的に合致するのであれば、彼はそれを受け入れ、そうでない場合は、それを捨て去るのである。一九八〇年代末、ユーゴスラビアにおいて唯一セルビア人がほとんど存在しないスロベニア共和国側の試みによって、ユーゴの統合が脅かされたとき、ミロセビッチは、自らを統合の擁護者とみなした。だが、本質的に統合に興味のなかったミロセビッチは、もし統合を維持するのであれば、セルビア人が支配できるような統合の枠組みを、それも、兵員の過半数以上がセルビア人で構成されるユーゴ連邦軍の力を通じて実現したいと考えた。要するに、ミロセビッチの考える統合とは、民主主義とは何ら関係のないものだったし、他の民族集団との権力共有もその視野には入っていなかった。
 実際、彼はスロベニアとクロアチアを激しく批判し、その後両共和国に経済制裁措置を適用することで、むしろ、ユーゴを分散へと導く張本人になっていく。スロベニアとクロアチアの独立運動、そして統合維持という名のもとに採用したミロセビッチの破壊的な構想によって、ユーゴの解体が不可避の状態になると、彼はさらに攻撃的なアプローチを取るようになる。要するに、彼は、ユーゴという体裁のもとでセルビア人の支配的な立場を維持できないのであれば、セルビアという名称でそれを維持することにしたのである。彼の計画では、クロアチア、ボスニア、モンテネグロ、そしておそらくはマケドニアのセルビア人たちも、国境線の再編を通じて、ミロセビッチの支配する「ユーゴスラビア」へと編入される計画だった。彼が強く主張していたのは、すべてのセルビア人は単独の国家のもとで生活する権利を持つという点である。しかし、現実には、世界のほとんどの国家が多民族国家であり、このドクトリンを普遍的に適用すれば、世界中の多民族国家が分裂することになる。


崩壊への道程

 私は、大使に着任した当初から、ベオグラードのアメリカ大使館に勤務する才能ある政治・経済の専門家集団、そして、ザグレブやクロアチアの領事たちに、ユーゴスラビアにとっての最悪のシナリオを考えるように求めたが、われわれがたどり着いた最悪のシナリオとは、ユーゴスラビアの解体にほかならなかった。そして、われわれはワシントンに対して、ユーゴスラビアが平和裡に解体することはあり得ないとレポートした。ミロセビッチがあおり立てた民族的な敵意が存在し、一方で、スロベニアを別とすれば、セルビア人と他の民族が混在して生活している以上、ユーゴの解体とは、すなわち、極端な暴力抗争、悪くすれば戦争が引き起こされることを意味した。したがって、われわれは、少なくとも緩やかな統合を維持し、一方で、民主的プロセスを採用するように彼らに働きかけた。ユーゴスラビアの新首相、アンテ・マルコビッチは、エネルギッシュなクロアチア人で、経済改革および西欧流の政治スタイルにコミットしている人物だった。マルコビッチは、われわれの主張するような緩やかな統合と、民主的プロセスの双方を促進しようと試みた。アメリカは彼を支援し、われわれは、他の西欧諸国もアメリカに続くように説得した。

 緩やかな統合の維持と民主主義の促進というアメリカの政策が、ブッシュ政権内部で物議をかもしだしたわけではなかったし、当初においては、西欧諸国もそれを問題にしなかった。しかし、ロバート・ドール(共和党・カンサス州選出)率いる議会勢力は、この政策を痛烈に批判した。彼らは、解体途上にある国家の統合を維持しようとするアメリカ政府の試みは、ミロセビッチを助け、スロベニアやクロアチアの民主勢力を不利な状況に追い込むと主張した。しかし、彼らは、民主的な統合が、統合や民主的改革には一切興味のないミロセビッチではなく、マルコビッチを助けることになるのを理解していなかった。最終的に、ユーゴスラビアの解体は実際に戦争へとエスカレートし、(セルビアの領土拡大を)もたらした。逆に言えば、統合と民主主義こそが、国家としてのユーゴスラビアを維持していくための鍵を握る不可欠の要素だったことが実証されたわけである。こうした要素の喪失は、国家の死を意味した。

 一九九〇年一月、チトーが作り上げた共産主義者同盟は息を引き取ることになる。内輪もめによって分裂していた共産主義者同盟幹部会は休会となり、二度と開かれることはなかった。ユーゴスラビアの政治的潮流は、共和国レベルで初めて実施される選挙へと向かっていた。スロベニアとクロアチアというユーゴの統合に正面から反対していた二つの共和国が、最初に投票を行ない、九〇年の終わりまでには、南部の四つの共和国も選挙を実施した。ミロセビッチは私に対して、セルビアの必要性を満たせるのは、(選挙ではなく)一党支配体制だとしばしば主張していたが、当のセルビア政府でさえもが選挙を実施した。

 民主的な枠組みのもとにユーゴスラビアを維持したいと考えていた者にとって、各共和国での選挙結果は、まったく失望を禁じ得ないものだった。一方、連邦レベルでの選挙に関しては、マルコビッチ首相が選挙実施の支持をとりつけることができなかったため、結局は行なわれずじまいだった。ユーゴの各共和国の市民たちは、民族的なテーマを強く主張するナショナリスト系政党の候補者へ投票することで、自分達の不満の解消策としたのである。ここにおける選挙は、まるで民族的忠誠度を測るテストのようなものだった。実際、民族主義政党が、マケドニア共和国を除く、六つの共和国のうちの五つで勝利を収めたのである。



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